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特集 トリオ食堂 写真:渡辺 有紀、文 赤星 豊

入ってすぐの正面にある大きなガラスケース。昼時ともなると、主菜や副菜、サラダ、漬物の類がびっしりと並ぶ。お客はトレイを手に、好きな料理を選んで載せる。空いている席を見つけ座ると、すぐさまお店のスタッフがお茶を持ってきてくれる。そして「ご飯のサイズは?」。ご飯は小さい方から、茶碗、小、中、大と4種類のなかから注文。あわせて、豆腐汁、貝汁、豚汁の3種類から汁を選ぶ。完璧な昼食の出来上がりだ───。 ここトリオ食堂では、オーダーで作ってくれる一般的なスタイルと、前述のカフェテリアスタイルとが並存している。

トリオ食堂写真 2009年2月10日
車を運転しながら、トリオ食堂の特集構成を初めて考えた。事務所に帰って、車のなかで思い浮かんだ企画を書き並べる。すぐに20ページ以上が埋まった。特集としていけそうだ。問題があるとすれば、トリオ食堂が取材に応じてくれるかどうかだ。

 トリオ食堂店主・浅野秀男さん、62歳。現在の店がある場所から直線距離にして1kmも離れていない倉敷市有城に農家の三男として生まれた。有城は典型的な田園地帯で、子供時代、家のまわりはほとんど田んぼしかなかった。倉敷の中心街へと抜ける県道も当時は舗装されておらず、よくバスがぬかるみにタイヤをスタックさせていた。そんな場面に出くわすたび、バスを後ろから押したのを秀男さんは憶えているという。
 地元の高校を卒業後は倉敷市の消防署職員として働いた。休日には従兄弟が働くバイクショップに通いやってみたいと思うようになっていく。その頃の浅野さんはまだ21歳。純粋に商売をやりたいというより、なにかをやりたくてウズウズしていた。そして消防署を退職、岡山で化粧品の訪問販売の会社をスタートさせる。そのとき出した新聞の募集広告を見てやってきたのが、後に秀男さんの妻となる曙美さんだった。曙美さんは玉野市の生まれ、秀男さんとは同い年である。

3月2日
3000円分のどら焼きを手土産にトリオ食堂へ。お店に入ると、店主の秀男さんが奥の席でカレイの煮付けをおかずに昼食を食べていた。特集の主旨を説明し、取材の了承を得ることができたが、しきりに「うちで大丈夫ですかねえ」と口にしていた。

 秀男さんが化粧品のセールス会社を立ち上げたのとちょうど同じ時期のこと。秀男さんのすぐ上の兄・義仁さんは地元・有城で喫茶店を始めていた。有城には田んぼしかなかった時代である。そんな土地で喫茶店を開くというのは荒唐無稽な話だった。しかし、祖母の静子さんをはじめ、両親・兄弟は賛成した。 店名の「トリオ」は浅野家の三兄弟、長男の利朗さん、次男の義仁さん、三男の秀男さんから由来している。「ふと思いついた言葉です。昔の話ですからね、誰が最初に言いだしたのかは忘れました(義仁さん)憶えやすく響きもよかった。なにより「いつも兄弟が」という三兄弟の絆を象徴する言葉として、「トリオ」以上のものはなかった。  トリオ食堂が喫茶トリオの隣でオープンしたのは、喫茶から1年後の1969年6月。喫茶のお客さんから、「このあたりで食堂をすればいいのに」という声がきっかけだった。当時、倉敷を西に走る国道2号線沿いにはドライブ有城周辺には食事を出す店がなかったのだ。オープン当初は、インが点在していたが、長兄の利朗さんと奥さんの弥栄子さんが切り盛りしていた。品数はいまよりずいぶんと少ないものの、食事を出すスタイルは冒頭で紹介した現在のものと変わらない。一般の家庭で食べるような魚の煮付けや焼き魚、野菜の煮物などを一品料理として出した。味付けの担当は弥栄子さん。どこかで修業したわけでもない、浅野家で日々出している“家の味”だった。

3月21日
カメラマンの堂本クンと昼食を食べにトリオ食堂へ。店内のテレビで地元・倉敷工業高校の甲子園での試合を中継していた。 秀男さんはレジの前に仁王立ちになって、お客さんたちと試合を観戦していた。そのときの、のんびりとしたお店の雰囲気がなんともいえずよかった。面白い特集になる予感がする。

 トリオ食堂のオープン当初、秀男さんはまだ岡山で化粧品の販売会社を続けていた。しかし、いずれ自分がトリオ食堂をやっていくという思いがあった。それは両親や兄弟の認識とも一致していた。秀男さんの言葉を借りれば、トリオ食堂は「分れ家」だという。分れ家とは分家のこと。次男の義仁さんに喫茶店をもたせたように、三男の秀男さんにトリオ食堂をもたせる。彼らの独立を全面的にバックアップするのが本家の存在だ。  秀男さんはトリオ食堂がオープンした年の末に、化粧品のセールス会社を閉め、翌年からトリオ食堂を引き継いだ。奥さんの曙美さんと結婚したのも、同じ年、1970年のことだった。


6月9日
秀男さんと奥さんの曙美さんが昔の写真をもってきて、楽しそうに当時を語ってくれた。創業してからの40年は、「あっと言う間だった」。そう言ったふたりの顔はとても満足そうだった。

 秀男さんと、利朗さんの奥さんの弥栄子さんがトリオ食堂を切り盛りする日がしばらく続いた。飲食業は初めての秀男さん、「最初は大変でした」と当時を振り返る。「若いから安易だったんですよ。そこそこ儲かればいいと、軽い気持ちで始めたんです。どこかよそで修業したわけでもないし。弥栄子さんがいなかったら、とてもじゃないけどやっていけなかった」
 ほどなくして、スタッフに曙美さんが加わった。当時の客の入りはそれほど多くなく、のんびりとした営業だった。昼食どきの忙しい時間帯を過ぎると、秀男さんは店からふらりといなくなることが多かった。曙美さんによると、パチンコに行っていたという。秀男さんは「若かったからね」と否定しない。
 トリオ食堂のすぐ南の山に「山陽ハイツ」がオープンしたのは72年のこと。結婚式場や会議場、宿泊施設を備えた複合施設で、オープンと同時に客足が一気に伸びた。水島工業地帯の建設ラッシュも客足の伸びを後押しした。秀男さんがパチンコに行く暇はなくなった。74年に日本中を襲った第一次オイルショックも、客の入りにほとんど影響を与えることはなかった。

トリオ食堂写真 トリオ食堂写真 トリオ食堂写真 トリオ食堂写真
トリオ食堂写真 6月18日
東京からやってきた写真家・渡邊有紀さんの最後の撮影日。有紀さんは丸3日間をトリオ食堂で過ごし、秀男さん夫妻ともずいぶんと親しくなった。午後、休憩しているところに奥さんの曙美さんが来て、有紀さんにネックレスをくれた。有紀さんが撮影を終えて帰るときは、秀男さん夫妻、拓也さんが店の外まで見送ってくれた。ウルルン滞在記のラストのようだった。

 71年には秀男さんの長男、現在厨房で働いている拓也さんが生まれている。当時、秀男さん一家3人は厨房の奥にあった六畳一間で生活していた。食堂にはもちろん風呂がなく、毎日、仕事が終わると幼い拓也さんを連れて本家に行った。お風呂を借りるのだ。これは喫茶トリオの義仁さん一家も同じだった。そんな生活が3年ほど続き、拓也さんの弟・信二さんの誕生をきっかけに、秀男さんは食堂の裏に自宅を建設した。
 昭和の終わりから倉敷に瀬戸大橋バブルがやってくる。トリオ食堂もバブルの恩恵を受けた。お客の入りはピークを迎えるが、90年代の終わりに思わぬ試練が待っていた。 すぐ隣の敷地に、ファミリーレストラン「ジョイフル」がオープンしたのだ。年中無休の24時間営業、価格ではまったく太刀打ちできない。オープン直前は戦々恐々としたという。対抗手段として定休日の日曜日も店を開けることにした。しかし、ふたを開けてみると、客の入りにほとんど影響はなかった。結局、ジョイフルは5年で撤退。しかし日曜日のお客さんがついていたので日曜定休にはいまさら戻せず、現在まで年中無休の営業を続けている。


7月11日
5日ぶりにトリオ食堂へ。秀男さんから「久しぶりじゃな」と言われた。それぐらい、ここ1カ月は頻繁に来ていた。来ると必ず奥の席で秀男さんと向かい合ってコーヒーを飲む。家の居間にいるような落ち着きをおぼえるようになっている。

秀男さんの長男・拓也さんがトリオ食堂に入って17年。もともとインテリアデザインの道に進むはずだったが、就職直前のバイク事故で倉敷に戻り、そのまま店を手伝い始めた。現在まで両親と将来について面と向かって話したことはない。が、拓也さんの意思は両親に伝わっている。「たまにオヤジがお客さんから言われるんです、『よかったな、息子が跡を継いでくれて』と。そんなときは『さあ、なにを考えているんだか』とか言っていますけど、そう言いながらも嬉しそうな顔をしています」
 2009年の今年、創業40年を迎えたトリオ食堂も、折からの不況のあおりを受け、客の数は減ってきているという。しかし、毎日のようにお昼を食べる常連さんたちの顔ぶれはほとんど変わらない。この食堂に足を運ぶお客さんが求めているのは、安心して食べられる食事と、この店の気安さ、居心地のよさだ。いまは少なくなってしまったトリオ食堂のスタイルは、10年後、20年後にも変わらずこの店で見られることと思う。
トリオ食堂写真