MYSTERY TOUR IN KURASHIKI
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アンダーグラウンド

第二章新宿駅西口地下広場

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皆一様に頭を垂れ、沈鬱な表情を浮かべていた。車座の中央に座っている斉藤は目の前で何が起こるのかさっきまで興味深げな目で見ていたが、いまはいたたまれず、取材ノートに目を泳がせている。ザキはなめるようにして酒を口に含んではチッと口を鳴らしている。シンは目だけでチエの様子をうかがっている。チエは顔色を失っていた。
 柱に背をもたせ、マキタが放心したような表情で前の一点を見つめていた。マキタの横に中年の男女が立っていた。ステンカラーのコートを着た男が女の肩に手をやり、女は立ったまま声を出さずに泣いていた。
「……なんで、なんでこんなところにいるのよ」
 やっとの思いで女は言った。この数分で何度も繰り返した言葉はマキタに向けられている。マキタは表情を変えず、目線を下に落とした。
 女はマキタの妹だった。昨日テレビのニュース映像に写っていたマキタの姿を偶然見つけ、夫と一緒に福岡から新幹線でやって来たのだった。
「お義姉さんに言ったら、行かないでくれって言われたんだけど」
 マキタが大きなため息をひとつついた。
「本当にすまない」
 マキタの声は細く、震えていた。
「女房にも悪いと思ってる。でも、帰れないんだよ。そっちの世界には戻れない」
 妹が夫に躰をあずけ、嗚咽を洩らした。
「お義兄さん、一度帰りましょうよ。行方不明のままってのはいくらなんでも。義姉さんも年が明けてから仕事をはじめてるんです。近所のスーパーでレジやってるんです。まわりの人間はいたたまれないですよ」
「すまない、本当にすまない。でも、みんなに会わせる顔がないよ」
「会社のことですか? あれは義兄さんのせいだけじゃないですよ。まわりの人間だって、知らなかったわけじゃないんだから」
「いや、踊らされた僕が馬鹿だった」
「会社なんかどうだっていいじゃない、小さな会社じゃないの」
「会社の規模は関係ない。お義父さんが残した会社を潰したんだ。親戚にも迷惑をかけてしまった。もう会わせる顔がない」
 妹の嗚咽に混じって、遠くで怒鳴り声が聞こえた。


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しばらく重苦しい沈黙がつづいた後、オヤジが声を低くして言った。
「まあ、こんなところで話してるのもなんだしよ。マキさん、そこの喫茶店にでも行って話してきたらどうだ? おい、金もってる奴は出しな」
「いや、いいですよ、いいですよ」
 妹の夫が言った。
「そうはいかねえ、あんたらおれたちの大切な人の客人だ。九州くんだりから来て、金出させるわけにはいかねえ」
 オヤジはそう言うなり腰を上げて、右手を上にしてザキとシンの前に差し出した。ふたりは無言でポケットから小銭を取り出し、オヤジの手にのせた。合わせて五百円にも満たなかった。
「なんだおめえら? 若いのにこれっぽっちしかもってねえのか?」
「オヤジの方が年金もらってるからもってるだろ?」
 皮肉っぽくザキが言った。と、やおら斉藤が膝で立って、財布から千円札を二枚抜き出した。
「おうあんた、いたんじゃねえかよ。早く出せよ」
 斉藤は納得できないという表情で、口を尖らせ、それでもすいませんと言って千円札を手渡した。
「これもって行ってこい、ゆっくり話してくりゃいい」
 マキタが斉藤にすいませんとだけ言って腰を上げた。サンダルを履きながらチエに小声で、おまえも来るかと訊いたが、チエは顔も向けず、ただ首を横に振っただけだった。
 三人は鉛をひきずっているかのような重そうな足取りで、飲食店が並ぶ地下街に向かった。奇妙な光景だった。浮浪者のひょろりと背の高い男がきちんとした身なりの男女を従えている。マキタのサンダルのペタペタという軽い音がなおさら光景を奇妙なものにしていた。
マキタと妹夫婦が離れた後も空気は油のように重く、彼らの肩にのしかかっていた。
 シンは煙草に火を点けながらマキタのことを思った。妻子もちがただの一時身を寄せただけのつもりでここに住み着いてしまうことは珍しくもなんともない。マキタにしても、はじめからここに住み着くつもりはなかっただろう。家族はいないが、おれだってそうだった。それがこの地下を寝ぐらにして二年。……二年、か。
「マキさん、女房もちだったのかよ」
 ザキの言葉が終わらないうちに、オヤジが吸いかけの煙草をザキに投げつけた。ザキは大げさに驚いて、すぐに毛布の上に転がった煙草を吸殻入れの瓶に入れた。
「わたし、なんで帰りなって言えなかったんだろう」
 唐突にチエの口から言葉がこぼれた。
「なかなか言えるもんじゃねえよ」
 オヤジが言った。言葉をつづけようとして、後ろからサンダルの音に気づいた。マキタだった。マキタはチエのすぐ目の前で止まった。細い肩を大きく上下させている。
「帰らないから……帰らないから安心してくれ」
 チエがマキタに顔を向けた。チエは無理に作った歪んだ笑顔をマキタに返した。
「あんた、一回うちに帰りな」
 表情とは裏腹に、チエの声は聞き取れないほどに弱かった。
「もしもうちにいたけりゃいればいいし、帰ってきたけりゃ奥さんとのことすっきりさせてから帰ってきてよ。それで今度は……今度は本当に……」
 オヤジがゆっくりとチエの傍に躰を移し、チエの肩に手を置いた。
「マキさん、行ってきな。行ってあの人たちと話してきな」
 シンにはマキタの目が潤んで見えた。マキタは唇を噛んでうつむいたまま踵を返した。サンダルの不規則な音が不思議な余韻をその場に残した。

 シンの隣で斉藤が何をするでもなく、気まずそうにノートをいじっている。オヤジとザキはそろってまずそうに顔をしかめ、時折舌を鳴らしている。泣いているのか泣きやんでいるのか、チエは毛布に伏せんばかりに躰を屈めたまま動かない。
 やや時間をおいて、チエがふうと大きく息を吐きながら躰を起こした。たっぷりと頬を濡らした涙を拭おうともせず、煙草を取り出し火を点けた。
「ふっ、珍しいもん見せちゃったね」
 オヤジとザキが同時に目だけでチエを見た。
「わたし、決めたよ」
「何を決めたって?」
 ザキが訊いた。
「わたし、あの人に帰ってもらうよ。それであの人がここに帰ってくるのを待つことにする」
「でもよ、いっぺん帰るとここには戻りにくい───」
「いや、それでも待つよ。わたし、あの人を愛してるんだ。がらじゃないのはわかってるけど、それでも愛してる」
 シンは「愛している」という言葉に、胸のうちが高鳴るのを感じていた。「愛」という言葉が人の口から放たれるのをはじめた耳にした。それは波のようにシンの心に押し寄せ、複雑に重なりあったその隙間まで澄んだ油のように染みわたった。
「そうだよ、待てばいい」
 まっすぐチエを見つめ、シンが言った。


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仮避難所のブルーのシートの上に、ご飯と汁の入った発泡スチロールの丼がぎっしり並び、その周囲を浮浪者たちが囲んでいる。ご飯の量はどれもたっぷりで、汁の具はわずかである。丼を囲んだ浮浪者たちは、どの丼に具が多いか目を凝らしている。
 支援団体による食事の配給は一月中旬からはじまっていた。山谷で炊かれた飯とおかずが朝と夜の二回、ライトバンでここ地下広場に運ばれてくる。その日の夕食は丼飯の上に大根とにんじんと豚肉が入った汁をかけたものだった。
「選ばない、選ばない、どれも一緒だよ!」
 支援団体の男が柄杓を手に枯れた声を荒げる。諦めたように誰かがひとつ丼を手にとると、輪は一瞬に崩れ、めいめい丼と割り箸を手にして寝ぐらにもち帰った。
「おい、おめえも食べるだろ?」
 重そうに腰を上げながらオヤジが斉藤に訊いた。
「いいんですか、食べても?」
「いいに決まってるだろ? 浮浪者に資格があるわけじゃねえんだ。おまえだって、浮浪者だって言えば今日から浮浪者なんだよ」
「じゃあ食べます、いただきます」
 斉藤は何が嬉しいのか、眼鏡の奥で目を輝かせている。
「チエ、おまえも食べた方がいいよ」
 シンがチエに声をかけた。チエの表情に生気はない。マキタはまだ帰ってこない。チエは何を見るでもなくただぼんやりと視線を前に向け、時々思い出したように酒を口につけていた。
「わたしはいい、わたしのことは気にしないで」
「食べた方がいいんじゃねえの?」
 ザキがサンダルを履きながら言った。
「ほんとにいい。わたしのことは放っといて。その方がわたしはよっぽど気が楽なんだから」
「そうか、そこまで言うんなら気にしねえ、おれにはこれからおまえが見えねえ。な、シンよ、おまえも見えねえだろ?」
  シンはひとつ鼻を鳴らして腰を上げた。ザキと斉藤があとを追うようについて行った。オヤジがチエにもう一度、ほんとにいいのかと静かな声で訊ねた。チエは一度軽くうなずいて見せた。
 斉藤とシンはひとつずつ、オヤジとザキは丼をふたつずつ手にして寝ぐらに戻ってきた。オヤジは自分の座っていた場所に丼をひとつ置くと、もうひとつを、柱一本隔てたところにぽつんと低くダンボールを囲った男の寝ぐらにもって行った。シンたちから男の姿はまったく見えなかった。オヤジが戻ってきた。
「あのじいさん、相当調子悪いみてえだな。丼もそこに置いといてくれって、手をつけようとしねえ」
「オヤジ、醤油くれよ」
 飯で頬を膨らませザキが言う。
「おい、ザキ! 聞いてるのかよ! ほんとにおまえって奴は、何が川田さんのあとを継ぐだ」
 オヤジはそう言いながらも、腰の後ろから醤油の入った小瓶を取り出しザキに渡した。そしてもう一度腰の後ろにごそごそと手をやって、今度は塩の瓶を取り出した。
「おい、斉藤さん、塩もあるからいったら言いなよ」
「オヤジの腰のあたりはあれだね、ドラえもんのポケットみたいだね」
「なんだ、そりゃあ?」
「へへ、そうゆうマンガがあるんだよ、子供が読むやつで。おれの子供が好きでよ」v 「ザキさん、子供いるんですか?」
 斉藤が訊いた。彼はさっきから箸が進んでいなかった。小さな具を箸でつまんでは、角度を変えて何度か眺めてから口に運んでいた。咀嚼も緩慢である。当然だろうとシンは思う。この丼が美味いわけがない。汁にはほとんど味がなかった。それに何よりこの空気、この匂い。シンは平然と丼のなかの飯をかき込みながら、盗み見るようにチエの様子をうかがった。チエは煙草を吸いながら、ロータリーのあたりに目を向けていた。浜にうちあげられた魚のような虚ろな目だった。
「いるっていうか、いたっていうか。説明すると長くなっちまうんだけどよ」
「みんなそれぞれ過去があるのよ」
 オヤジが諭すように言った。
「みんなあんまり話したがらないんだけどよ───ゲッ! 砂が入ってやがった!」
 ザキが鶏のように首を前に突き出し、口のなかのものを酒で無理矢理呑み込んだ。
「でもよ、教えてくれって言われたら、おれは教えてやらないでもねえよ」
「じゃあ、教えてくださいよ」
 斉藤は箸を置いて、黒いバッグから録音用のテープレコーダーを取り出した。
「長ェ話がまじまるぞ」
 からかうようにオヤジが言った。
「いいかい、おれはよ、昼間っから酒は飲む、仕事はしねえ、女はつくる、まあろくな亭主じゃなかったわけよ、昔の話だぜ。女房ともよく喧嘩してよ、何度か殴ったことはあるけど、もちろんグーじゃねえよ、いつもパーだ。おれはこれまで拳で女は殴ったことはねえ、本当だぜ。それにひきかえあいつときたら、グーで思いっきりおれのこと殴りやがる。それが痛ェのなんのって。おれがテレビを質に入れてベロベロになって帰ってきたときなんて、顔殴ったうえに髪の毛を掴んでこうだよ、こう」
 ザキは自分の髪をぎゅうと掴んで引っ張って見せた。
「それで顔に膝蹴り入れやがった。もともと筋金入りのヤンキーだからよ、はんぱじゃねえんだよ、やることが。で、そんとき子供が起きてきておれの顔見て、びっくりして泣き叫んだんだよ。だってそんときのおれの顔ったら、ケチャップで顔洗ったみてえに顔じゅう真っ赤だったんだから───」
「おめえ、いったい何の話してんだ?」
「うっ……何って、おれの過去の話じゃねえかよ」
「おまえがカミさんに殴られて顔がケチャップみてえになったってのが、人様に話すような過去なのかよ?」
「うるせえな、いいんだよ、これは話の枕なんだよ」
「薄汚ねえ枕だな」
「外野、うるさいよ。おれはオヤジに話してるんじゃねえんだよ。斉藤さんに聞いてもらって───」
 それからどうしたんだよ、とシンが間に入った。
「なんだ、おめえも聞いてたのかよ」
「聞いてないよ」
「うっ、じゃあなんでそんなこと───」
 オヤジが言葉をさえぎった。
「悪かったよ、おれが悪かった。だからさっさと話せよ、手短にな」
「おまえらほんと最悪だね。ここからが本題だってときによ。いいか、ええっと、五年前ぐらいだったかな。おれよ、交通事故で二カ月入院しちまってよ。酔っ払いに車ではねられたうえに、車とガードレールに挟まれちまったんだ。おれももちろん酔っ払ってたんだけどな。それで、でっけえ病院に入院したんだけど、女房も子供もはじめに一回顔出しただけで、それからは来やしねえ。ま、無理はないんだけどよ。でもよ、おれ、病院のベッドでまったく動けなかったから、いろいろと考えたんだよ。それでわかったんだな。殴ってくれるかあちゃんがいるだけ、まだ捨てたもんじゃねえって。子供だって、こんなおれにも父ちゃん、父ちゃんって。そう思うと寂しかったね。夜中に天井を向いて、泣いちまったよ。そのとき、帰ったら真面目にやろうって誓ったんだ。別人になって家に帰って、喜ぶ女房と子供の顔なんか想像して嬉しくなったりしてよ。でも、これが遅かったんだな。やっと退院して家に帰ったら息子がひとり家にいてよ、帰ったぜって家に入ると、あいつ何したと思う? えっ? あろうことか警察に電話しやがったのよ。『知らない人が家に入ってきました、すぐに来てください!』ってこうだよ。さすがにこたえたね。たぶん、女房にそう言えって言われてたんだろうな。それでおめえ、警察がふたりも家にズカズカ入ってきてよ、おれの腕を引っ張るわけよ。自分の家だって言ってもあいつら聞きやしねえ。それからがまた───」
 シンは周囲の喧騒に混じってサンダルの音を聞いた。ほぼ同時にチエとオヤジが音の方に振り向く。マキタと妹夫婦が歩いていた。三人ともうつむき、重そうな足どりでこちらに向かってくる。チエがマキタに向けた視線を戻し、すぐさま新しい煙草に火を点けた。煙草をもつチエの手が震えるのをシンは見ていた。