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特集 倉敷ミステリー・ツアー
MTK09

樽流しの伝説

樽流しの伝説
地図

今年4月、瀬戸大橋が開通20周年を迎える。この瀬戸大橋は倉敷市の南端にある児島と四国の坂出を結ぶ。海峡部だけで全長9.4km。写真でおわかりのように眺めは壮観だ。

本州を離れてひとつめの橋げたがあるのが櫃石島である。対岸の下津井からはわずか1kmの距離。しかし、問題はこの1kmのなかに存在する。なんとこの距離のほぼ中間に、倉敷市が属する岡山県と四国・香川県の県境がある。つまり、これだけ長い瀬戸大橋の大部分は香川県の領域にあるということ。下津井沖の、この異様なまでの狭さはなぜ?

倉敷には下津井沖の海域にまつわるひとつの伝説がある。まだ岡山と香川の領域があいまいだった江戸時代の話。岡山・備前と四国・讃岐の両藩が海域を決めることにした。その方法がちょっと変わっている。海に樽を流し、流れた軌跡を藩境にしようというのである。この伝説の主人公が児島の菅野彦九郎。下津井沖よりもさらに東にあって、重要な漁場であった大槌島界隈の海域決定に際し、類稀な度胸と知恵で、備前藩に有利な裁定をもたらした実在の人物だ。

彦九郎は大槌島の裁定につづき、下津井沖の領海も決定しようとした。樽流しは彦九郎のアイデアである。彦九郎はあらかじめ樽を流してテストし、樽が櫃石島の沖にある与島の南を通って、西の水島灘に抜けるのを確認していた。この分だと備前藩にも十分な海域を得ることができる。そう確信した彦九郎は讃岐藩に樽流しを提案。承諾を得て、幕府の見分役立ち会いのもと、樽流しの日とあいなった。ところが樽はどんどん下津井側に近づいてくる。彦九郎ほか備前藩の面々は焦った───。

以下、児島の郷土史家として貴重な著書・資料を数多く残した角田直一氏の書物から引用する。

《彦九郎は驚いたがもはや後のまつりであった。さすがの智慧者も漁師でなかっただけに潮流の変化に気づかず、勝ち誇った讃岐の者から言われた。「貴殿は潮流のことをご存知ない。潮流は時間によってたいそうちがう。もう小半刻(一時間)遅かったら、貴殿の思うとおりに流れたであろうに、約束だからご異存はあるまいて」》(角田直一著『私の備讃瀬戸』より)

面白すぎる話である。この話から、「岡山・倉敷の人は計算高い」とか、「ちょっと抜けている」とひとくくりにするのは勘弁願いたい。倉敷の人の多くが信じているこの伝説には、実はなんの歴史的裏づけもないのだ。一方、角田氏の著書から下津井沖の海域に関する資料を調べていくうちに、伝説とはまったく異なる史実がわかってきた。

瀬戸内海の下津井沖から四国・丸亀沖にかけてのエリアは「塩飽(しわく)」と呼ばれてきた。先述の櫃石島を含め、本島、与島、手島、広島、牛島、高見島の7つの島は「塩飽七島」とも呼ばれる。この塩飽諸島は古来より、卓越した造船力、操舵力、軍事力を誇った。そんな彼らの能力を時代時代の勢力は利用し、また塩飽もその見返りを受けてきた。その際たるものが、豊臣秀吉から塩飽諸島に住む650人の船方(水夫)に与えられた「人名」という制度。武士ではない彼らに塩飽の領地所有を認め、独自に行政する権利を与えたのである。

江戸時代に入っても、徳川幕府はこの人名制度の特権を認めた。どの藩にも属さず、幕府への年貢も一切なし。この締め付けの厳しい時代にあって、これほど優遇された地域は珍しい。当然、塩飽海域の漁業権も独占状態。対岸の下津井の漁師たちは、猫の額のような狭い海での漁を強いられてきたのだった。1645年、そんな下津井の漁師に追い討ちをかけるような出来事が起こる。

先述の櫃石島と同じように、下津井の目の前に六口島、松島、釜島の3つの島がある。この三島の領有権が塩飽にあると、塩飽側が申し入れてきた。下津井の漁師の息の根を止めるような言い分である。そこで下津井側は、この三島が歴史的に下津井のものであることを証明する反論書を備前藩に提出、幕府の裁定をあおいだ。その結果、晴れて三島が備前藩の所有として公に認められたのだった。

釜島・松島の沖を通り、櫃石島にかけては下津井に急接近し、そして六口島の沖を抜けて水島灘にいたる。この岡山県と香川県の県境は、樽が流れた跡ではなかった。塩飽諸島と下津井との歴史的な領有地争いの結果であったわけだ。

では、なぜこんな伝説が生まれたのか。角田直一氏は次のような秀逸な推測を残している。

《「ああ、海が狭い、備前の海はなんと狭いのであろう」と嘆じた児島の民は、遠い昔にきめられた歴史的事実を知ってか知らずか自分たちの側の英雄菅野雅彦九郎にひとつの賭けを託した。その賭けはたとえ創作された観念であったとしても、その賭けに敗れた以上、敗者のあきらめは当然であろう。彼らは知識によってではなく賭けによって現実を理解しようとした。それから今日まで樽流しの伝説は備前児島の民衆にあきらめと現実肯定の作用をはたしながら、今日まで生きつづけてきたのである。》(『私の備讃瀬戸』より)