MYSTERY TOUR IN KURASHIKI
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特集 倉敷ミステリー・ツアー
MTK05

ある画家の生涯

『下津井風景』
『岩木山』
『岩木山』
『下津井 日の出』
『下津井 日の出』

初めて作品を見たのは昨年だった。児島で学生服を生産・販売する明石被服を訪れていたときのこと。同社が所蔵する膨大な数の美術品を社長の案内で見せてもらった。そのなかでふと目をひいた風景画があった。懐かしさで胸が温かくなる思いがした。昔この目で見た風景がそこにあったのだ。下津井から見た風景だろう。いまは瀬戸大橋の橋げたに島の一部を削り取られてしまった櫃石島が、昔のままの美しい姿で絵の中心に据えられていた。ほかにも明らかに同じ画家が描いた作品が多数あった。東北や北陸の風景画もある。聞くと、作者は下津井に住んでいた画家だという。「阿藤秀一郎の作品です」と社長は言った。

阿藤秀一郎は無名の画家である。日本の画壇から距離を置いていたか、見向きもされなかったか、阿藤の関連資料は皆無に等しい。死後35年経ったいまも、注目されることは一度もなかった。どんな生涯を送ったかは謎に包まれている。それでも阿藤について調べてみることにした。

阿藤秀一郎は1888年、倉敷市の西に隣接する浅口市鴨方町に生まれている。1908年、20歳のときに京都関西美術院に入学。その4年後に上京、東京川端画学校へ入学している。この時代には教官だった洋画家の藤島武二に師事したと思われる。1923年にはフランスに渡り、パリのグラン・ショミエールでルネ・メナール(Emile-Rene Menard)に師事したこともわかっている。

こうした経歴を見るかぎり、しかもフランスに留学していたという点で、若かりし日の阿藤が洋画家としての成功を夢見ていたことは間違いない。しかし、ヨーロッパから帰国した後の、30歳代後半の阿藤の行動は路線をはずれている。定住することなく、台湾や北海道、奈良など各地を遍歴するのだ。その間、創作もつづけていたが、日本の画壇からはすでに距離を置いていたようである。その理由は、いまとなってはまったく知るすべがない。

ほどなくして阿藤は故郷の岡山に戻ってくる。居を転々とした後、下津井に移り住んだ。当時、下津井にパトロンとなる人がいたこと(後にパトロンとの関係は絶たれることになる)、また、従姉妹の娘にあたる荻野千代子さんが下津井に在住していたことも、下津井への移住を決意させた理由だったかもしれない。「戦時中には下津井に住んでいたと思います」と千代子さんは当時を振り返る。 「育ちがよかったんでしょうね、スラっとして姿勢がよくって。それに、いつもにこやかで言葉が優しいの。欲がないのが顔に出ていました。仏様のようでしたよ」

千代子さんの知るかぎり、阿藤は下津井に暮らして「絵を描くことしかしなかった」という。子供はいなかった。岡山に戻ってきて結婚した妻・芳枝さんとのふたり暮らし。芳枝さんはお茶と生け花を教えていた。だが、急な坂にある平屋の小さな一戸建てでの生活はごくごくつつましいものだった。こんなエピソードがある。阿藤の死後、家から発見された絵のなかに、安物のベニヤ板に描かれたものが何点かあった。しかも両面を使っていたという。画材の購入に困ることが多々あるほど、阿藤の生活は困窮していたことがうかがえる。

阿藤は家を長く空けることも多かった。放浪癖があったと言えるだろう。青森、秋田、北陸など、思い立てばすぐに絵を描きに出かけた。お金に余裕があったわけではけっしてない。各地に馴染みがいて、宿と食事の世話を受けていたようだ。旅館であったり、酒屋であったり、あるいは地元の名士であったり。その代わり、阿藤は現地で描いた絵をそこに残して、次の土地へと移っていくのだった。芳枝さんが亡くなったのも、阿藤が東北に行っているときだった。近所の人の話によると、電報を受け、すぐさま下津井に帰ってきた阿藤は、妻の死を嘆き、その夜、死後数日経った芳枝さんの横で添い寝したという。

阿藤氏

晩年は、児島の唐琴や鷲羽山、下津井など、自宅からさほど遠くないところで絵を描いた。足腰が弱った最晩年になっても、画材を運んでくれる人を探してまで絵を描きに出かけた。生活の方はというと、千代子さんに頼ることも多かった。当時、阿藤の家によく行っていた千代子さんの長女・正子さんに話を聞いた。「小学校の頃、自転車に乗ってよく弁当やおかずを持って行きました。家は小さな台所と10畳ぐらいの部屋がひとつあるだけです。絵が散乱していて、足の踏み場もありませんでした。私が行くといつも、『ああ、あなただったんですか、いつもありがとうね』と大人に話すような感じで私に話してくれたのをよく憶えています。それがすごく嬉しかったから」

80歳を過ぎて入院生活を余儀なくされたが、入院先の病院でも阿藤は絵を描いていたという。まさに生涯、絵を描くことに憑かれた画家だった。阿藤は亡くなる間際、「家にある絵をどうしたらいいか?」と訊かれこう言った。「全部海に流してくれたらいい」

1972年8月、阿藤は下津井で84年の生涯を終える。阿藤の死後、千代子さんは娘の正子さんと一緒に、阿藤の足跡を追って東北・北陸地方を旅して回った。死の直前、「これまで絵を描いてきた土地を巡ってほしい」とリクエストされていたのだ。千代子さんらは行く先々で驚くほどの歓待を受けたという。「十和田湖にある<休屋ホテル>(館名:休屋 桂月亭)に行ったとき、ロビーに大きな絵が飾ってあったんです。それが阿藤さんの絵でした。ホテルの社長さんが自ら、阿藤さんがよく絵を描いていたという場所も車で案内してくれました」

ほかにも巡った土地という土地で、千代子さんらは阿藤が残した作品に出会い、現地の人の阿藤との思い出話を聞いた。無名だった画家は、無名のまま生涯を終えた。しかし、阿藤は人々の記憶に確実に残っていた。

取材を通じて阿藤の絵を何度も見た。たぶん、絵を知っている人には凡庸ととられるのだろう。しかし、どの絵を見ても阿藤の筆は楽しそうだ。美しい景色を見て、美しいと感じたまま描く。そこにはなんの欲も存在しない。阿藤 にとっては、描くという行為そのものが至上の悦びではなかったか。阿藤の絵を初めて見たときに感じた懐かしさは、いまではたんに風景への懐かしさからではなかったのだと思っている。