MYSTERY TOUR IN KURASHIKI
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特集 倉敷ミステリー・ツアー
MTK02

倉敷はなぜ空襲を免れたか?

倉敷の空中写真
地図
※名称はすべて米軍作成の『目標情報票』より
米軍は倉敷市中心部に4つの軍事関連工場があることを把握していた。これら4つの施設すべてを攻撃目標とした軍の資料が存在する。

第二次世界大戦末期の1945年。日本の各都市は米軍による空襲の恐怖にさらされていた。前年の7月、サイパンを含むマリアナ諸島が米軍によって制圧された。これにより戦況は大きく変わっていく。米軍が本土爆撃の絶好の基地を手にしたのである。同年末頃から、日本の軍需工場への空爆が始まった。そして、翌年には軍需工場と並行して、都市が空爆の目標とされた。45年3月10日の東京大空襲では10万人以上が犠牲になった。この空襲は、以降日本各地を襲った無差別爆撃の幕開けだった。2日後の12日に名古屋、13日に大阪、17日には神戸が空襲され、多くの市民が犠牲になった。米軍によるこの無差別爆撃は8月15日、終戦の当日まで続いた。

同年6月29日には、倉敷が隣接する岡山市が空襲されている。中国・四国エリアでは初めての空爆だった。当時、中国地方では広島市の方が人口も多く、街の規模も大きかったために、岡山市民には「まさか広島より先に空襲されることはない」という思いがあった。そんな思い込みによって警報が著しく遅れ、死者2000人以上、罹災家屋2万5000戸という甚大な被害を受けた。以降、7月4日に高松が空襲され、8月6日には広島に原爆が投下される(広島は原爆投下の対象だったために、それ以前の空襲の対象からはずされていた)。その後も空爆は続く。長崎に第二の原爆が投下される前日の8月8日には、倉敷からも近い広島県の福山市が空襲され、大きな被害が出ている。 

戦時中の倉敷は、中心に近いところに複数の軍需施設を抱えていた。その頃の倉敷市民が、空襲を現実のものとしてとらえ、その恐怖におびえながら生活していたことは疑いようがない。しかし、結局、倉敷は空襲に遭うことなく終戦を迎えた。

なぜ倉敷が空襲されなかったか、その定説が倉敷にはある。倉敷の大原美術館が所蔵していた西洋の芸術作品の数々───エル・グレコの『受胎告知』、モネの『睡蓮』のほか、ゴーギャン、マティス、ミレー、セガンティーニなど───いわば西洋の宝が倉敷にあったから連合国が空襲の対象からはずした、という説である。この定説は多くの識者が著書や講演のなかで述べている。京都や奈良、金沢といった、歴史的価値の高い古都が空爆により破壊されなかったという事実も、この定説を後押ししている(京都は数度の空襲があり、一部で被害を受けている)。空襲の目標を決定するのに、都市の文化的価値が考慮されたのではないかと推測されるからである。

岡山空襲資料センターの日笠俊男代表は、この定説をきっぱりと否定する。「米軍は敵国の文化財のことなど考慮していません。実は京都も原爆の対象になっていたぐらいです。それをしなかったのは、米陸軍長官のスティムソン(Henry Lewis Stimson)が、戦後に日本の反米感情が高まって、ロシア側につくことを恐れたからです」

日笠さんによると、奈良も金沢も米軍の空襲の対象に入っていたという。その根拠となるのが、米陸軍航空軍司令部A-3が作成していた『(秘)小工業都市地域への攻撃』という文書だ。このレポートは人口の観点から攻撃都市の優先順位を検討したもの。その都市の数は、東京を筆頭に180にも及ぶ。そのなかに奈良も金沢もある。空襲で大きな被害に遭った岡山はNo.31にリストアップされていた。そして、このリストのNo.159が倉敷だった。

ちなみに、当時の倉敷は人口が約3万2000人。この程度の町も現実的な空爆対象にあった。45年7月に空爆され、多数の死傷者を出した敦賀は約3万1000人だった。

倉敷は米軍の攻撃対象になっていただけではない。空爆の時期が間近に迫っていたという資料もある。次のページに掲載した『目標情報票(Target Information Sheet)』がそれだ。これは日笠代表が、大阪国際平和センターがマクスウェル空軍基地の米空軍歴史研究センターから購入したマイクロフィルム計51巻を調査中に発見した。空爆の決定が下った都市の情報を、任務にあたる空軍の作戦機に伝えるために作られたのがこの『目標情報票』。都市の位置や目標ポイントだけでなく、都市の概要が産業から人口にいたるまで驚くほど詳しく、また正確に記されている。

倉敷を目標にすえた『目標情報票』は45年8月8日付で作成されている。なんと終戦の1週間前である。日笠代表は次のように言う。「通常、『目標情報票』が作戦機に渡されると、平均で1週間後ぐらいに実行されています。佐世保は2日後、岡山の場合は9日後でした。ですから倉敷空襲が実行寸前だったことは明らかです」

あと1週間終戦が遅れていたら、倉敷はほぼ間違いなく空襲されていた、と日笠代表は言った。この『目標情報票』には、倉敷の定説とされていた大原美術館についての記述は一行も見当たらない。「芸術が町を救った」という説は幻想だったと認めるしかないだろう。もしも、この事実から学ぶことがあるとすれば、それは戦争の悲惨さ、冷酷さしかない。戦争にはロマンティシズムが入り込む余地などないのである。

目標情報票01
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戦時中、倉敷では水島エリアに一式陸上攻撃機を生産する三菱重工業水島航空機製作所があった。倉敷市中心部には、その部品を生産する工場が分散していた。『目標情報票』はそうした情報を米軍が正確に把握していたことを示している。冒頭の倉敷の概要説明のなかにこう記してある。<倉敷はちいさな市であるが、日本の中の最大級の紡績工場がある。それは玉島の三菱航空機(水島)標的No.1681のようなより大きな組み立て工場に供給する航空機組立部品工場に転換している>。また、倉敷の空爆の重要性としては次のようにある。<規模のちいささにもかかわらず、第一は大きな最終組立工場への精密爆撃、第二は転換している組立下位工場への焼夷弾攻撃、第三はちいさな部品供給工場の破壊、この組み合わせにより、航空機生産の大部分を終息させる可能性を生じさせるところにある>

目標情報票02
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<焼夷弾攻撃地域に含まれる標的の位置>として「目標情報票」に記してあるのは、倉敷航空機会社倉敷工場、名称不明の紡績工場、三つのちいさな名称不明の紡績工場、倉敷駅と操車場の以上4項目。これらはいずれも市街地にある。一方、<焼夷弾攻撃地域外にある標的の位置>として、高梁川に近い倉敷絹織株式会社、市の東北部の大阪陸軍被服廠倉敷支廠の2カ所が記されている。この両施設は市中心部からはずれている。つまり、米軍は軍の関連施設を正確に把握していたが、攻撃の目標をあくまでも市街地においていたことがわかる。もしも「目標情報票」の指令通りに空襲があった場合、倉敷の街が壊滅的な打撃を受けたであろうことは明らかである。