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特集 倉敷ミステリー・ツアー
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円山応挙の絶筆の作品が倉敷に!

応挙 竹鶏図
『雪松図屏風』
『雪松図屏風』三井記念美術館蔵

金のふすまに描かれた2羽の鶏と竹林。円山応挙の作品とされるこの『竹鶏図』は、倉敷市由加山にある蓮台寺が所蔵、一般に公開している。円山応挙といえば、近現代の京都画壇にまで系統が続く円山派の祖。写生を重視した画期的な画風は、18世紀の京都で絶大な人気を得たばかりでなく、後世の日本画にも多大な影響を与えた。応挙が残した数々の傑作のなかには、国宝に指定されている作品もあるほど(『雪松図屏風』写真:三井記念美術館蔵)。こうして応挙の偉大さを述べれば述べるほど、疑問はどんどん膨らんでいく。そんな巨匠の作品がどうして倉敷の寺にあるのか。しかも、この絵は応挙の「絶筆の作品」ともいわれているのである。

まずは『竹鶏図』が本当に応挙の作品かどうかについて述べよう。この作品には、本物であればあってしかるべき応挙の落款がない。作品の真贋を判断するのに決定的な証拠を欠いているのはたしかに分が悪い。しかし、この絵には落款にも匹敵する確かな証拠が存在する。その証拠とは皆川淇園の書。淇園は応挙と同時代に京都で活躍した著名な儒学者だ。

上の写真を見てほしい。ふすま絵の左上に「寛政七年夏───」で始まる書が付されている。これを書いたのが皆川淇園その人。淇園は応挙の親友であり、また応挙から絵を学んでいた。その彼が仲介役となって、応挙宅を訪ね、由加山神符所のふすま絵として『竹鶏図』を依頼した。ふすま絵にある書は、こうした経緯を述べた識語なのである。また、これには淇園自身の印章も捺されている。

京都の市井の文化人を紹介した『平安人物史』(1775年発行の第二版)によると、応挙は画家の部門で、伊藤若冲、池大雅を抑えてトップに名前が掲載されている。それほどの人気画家にふすま絵を依頼するのだから、相当な額のお金が必要だったはずだ。しかし、当時の由加に、応挙にふすま絵を依頼するだけの経済力があったこともはっきりしている。その頃の由加山は、四国・金比羅との両参りで全国に知られる存在だった。「金比羅参りは由加参り、一方参りは片参り」といわれ、両方を参って初めてご利益があるという風説が由加山を参拝者でにぎわせた。その隆盛の名残は、寺の造りや所蔵品にいまも見られる。

次にこの『竹鶏図』が「絶筆の作品」かどうかを検証しなければならない。というのも、一般的に応挙の最後の作品とされている絵がほかにあるからだ。『保津川図屏風』がそれである。応挙が亡くなったのが1795年7月。この作品は同年の6月に完成している。一方の『竹鶏図』は、淇園の識語によると、同年5月19日に依頼をしたとある。そして、落款を入れる前に応挙が亡くなったために、応挙の息子である応瑞が代わって捺印したと記している(応瑞の捺印は画面の荒れにより現状では見当たらない)。

淇園の識語にあるように5月19日に依頼があったとしよう。では、この絵の完成にはどれぐらいかかったのだろうか。応挙研究の第一人者といわれる京都国立博物館の佐々木丞平館長に聞いた。「この時期の応挙は、息子の応瑞や弟子たちの助けを借りて作品を描いています。それぐらい体調が悪かったのです。しかし、この『竹鶏図』は下絵の後に本画にとりかかり、さらに彩色や金箔を施すなど、かなり手のこんだ作品です。弟子たちと一緒に仕上げたとしても、ある程度の期間がかかったことは予測できます」

もしも6月までかかっていたとしたら、『保津川図屏風』よりも後に完成していたかもしれない。しかも、『竹鶏図』に落款がないことは、『保津川図屏風』よりも完成時期が遅かった可能性を示唆していないだろうか。『保津川図屏風』には応挙の落款があるのだ。しかし、佐々木館長は「落款がないことで完成の時期を推し量ることはできない」と言う。「完成していたのに、たまたま落款を入れるタイミングを失っていたことも考えられます。実際に、晩年に描いたもので、落款のない応挙の作品はほかにもあるんです」

『竹鶏図』と『保津川図屏風』、いったいどちらが本当の絶筆の作品か。「その判断は不可能です」、佐々木館長は言った。応挙は晩年には目を患い、ほとんど視力を失っていたという。その見えない目で最後に仕上げたのは、どちらの絵だったのだろうか……。