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海 路地

写真提供/山陽新聞社

 倉敷市の南端、半島のように瀬戸内海に突き出たところを児島地区と呼ぶ。「繊維の町」として全国的に知られるこの地区の、さらに南の端に位置するのが下津井である。さして大きな町ではない。児島地区の人口が約7万5000人。下津井に住むのはそのうちの約6000人にすぎない。しかし、ここには他の土地にはない際立った個性と独自の文化・歴史がある。

 下津井には古くから小さな城があった。江戸時代に入り、初代城主となって入城した池田長政がこの城の大改修にとりかかる(その背景には、軍事上の拠点として西国大名の動きをけん制しようとする幕府の思惑があった)。長政は同時に城下町として町の整備にあたった。こうして小さな漁村にすぎなかった下津井は城下町へと姿を変えた。だが、幕府の「一国一城令」によって1639年に下津井城は廃城。城を失った下津井は、しかし政治に左右されることなくさらに発展していく。その発展を支えたのが、下津井の港だった。
 下津井は元来、天然の良港だった。瀬戸内海に突き出た土地、しかも波が穏やかで、風待ち・潮待ちには最適だった。さらに、忘れてはならないのが下津井の水である。海岸沿いの土地の多くは水に塩分を含むが、下津井では良質の水が豊富に湧き出た(現在も共同井戸群など多くの井戸の跡がある)。瀬戸内海を東西に航行する船は、この水を求めて寄港した。下津井の経済と町の発展は、こうした港にやってくる船によってもたらされた。とくに北前船の寄港は、下津井の経済と文化に大きな影響を与えた。
 北前船とは、北海道や東北・北陸と大阪を結ぶ貿易船をいう。瀬戸内海は大阪へと向かう北前船の航路だった。そして、下津井はこの船の重要な寄港地であり、年間50~60隻が寄港した。数十艘からなる北前船の船団には400人を超える船員が乗船しており、寄港のたびに下津井の町はにぎわった。また、下津井は北前船にとって重要な商いの場でもあった。当時の倉敷には広大な干拓地があり、児島では綿の栽培が広く行われていた。これらの土地で肥料として使われていたのがニシン粕だった。北前船はこのニシン粕を大量に運んできた。下津井にはニシン粕を商う問屋が集まり、購入した粕を貯蔵する土蔵倉(ニシン倉)が乱立した。商いは相当に大きかったようだ。ひとつの取り引きが千両にもなることがあったという。ちなみに下津井の当時の富豪・荻野屋は、倉を貸す倉敷料と問屋への資金の融資で財をなしたといわれている。
 ほかにも、西国の大名を乗せた御座船、幕府の将軍が代わるたびに朝鮮から訪れた使節「朝鮮通信使」の船が下津井に寄港した。下津井は瀬戸内海有数の港として、広く知られるまでになっていた。
 江戸中期に入ると、下津井から四国へと渡る船のルートも確立された。この頃、四国の金比羅と児島の由加の両参りが盛んとなり、下津井は本土の終点として宿場町の役割を担った。港周辺には宿屋や飲食店が建ち並び、さらには港を囲むようにして遊郭も築かれ、旅人たちや停泊した船の船員たちでにぎわった。そのにぎわいは、岡山城下をしのぐほどだったともいわれている。

 こうして江戸時代から明治時代にかけて栄華を極めた下津井も、明治時代末期以降、急速に衰退しはじめる。もっとも大きな原因は交通機関の発達だった。北前船は明治30年代には鉄道にとって代わり、大きな船の寄港は激減した。寄港する船が減るにつれ、町の姿も変わっていった。建ち並んでいた土蔵倉は民家に改築され、宿屋・飲食店も急速に数を少なくしていった。近年、四国へのルートは、下津井と丸亀を結ぶフェリーによってかろうじて保たれていたが、平成に入って瀬戸大橋の開通にともない廃止となった。

 下津井港は、現在、主に漁港として機能している。田之浦、吹上、下津井、大畠の四地区の港には漁船が並び、タコの干物が吊るされた港付近の光景は下津井の風物詩となっている。早朝は魚介類を求めてやってきた仲買人のトラックなどでにぎわうが、それ以外の時間帯には人の姿はまばらだ。今の下津井港の姿に昔の面影はない。しかし、一歩通りに足を踏み入れると、商家や土蔵倉が建ち並んでいた町の面影が残る(中町の町並みは岡山県から保存地区に指定されている)。「下津井弁」と呼ばれる、いまもこの地区のみで使われる方言も残っている。北前船で歌われた「下津井節」は、岡山県を代表する民謡として受け継がれている。下津井は、独自の発展と衰退を経験した町の残り香をいまも強く放っている。