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Kunihiro Harada
リョウザンミシン代表の原田國弘さん。
Hitoshi Fujita
藤田仁志さんは児島では珍しいフリーランスの縫い子。
Masaaki Takao
高尾ミシン工業所代表の高尾昌明さん。






 現在、児島には約20軒のミシン屋がある。人口8万人の街にしては明らかに多い。理由は明白だ。縫製に関連した仕事がミシン屋の数に見合うだけあるということである。したがって、児島にあるミシン屋が扱うのは、一般家庭用ではなく、業務用ミシンが圧倒的に多い。創業40年になるリョウザンミシンも児島に店舗をもつミシン屋のひとつ。同社はBIGJOHN、ドミンゴ、ベティスミスといった児島を代表するデニムメイカーを顧客にもつ。
 現代表の原田國弘さんは香川県高松市の出身、40年前に児島にやって来た。ミシンはずぶの素人だった。それまでは自動車修理に携わっていたという。児島に渡ってきてすぐにミシンの修理を始め、ほどなくして前社長とリョウザンミシンを設立した。
 同社の設立とほぼ同じ頃、学生服や作業着を主に生産していた児島にジーンズという新しいジャンルが加わった。マルオ被服(現BIGJOHN)が国産第一号のジーンズの生産に成功し、販売をスタートさせたのである。ジーンズの出現で従来になかったミシンの機種も新しく導入された。当時のことを原田さんは鮮明に憶えている。「ビッグさん(BIGJOHN)が外注で出されていた縫製工場の表で、初めてユニオンを見たんです」と原田さんは振り返る。ユニオンとはアメリカ製のミシン「ユニオンスペシャル」のこと。厚みのあるデニムの巻き縫い(折り返して重ねて縫う縫い方)に適した環縫いミシンとして、業界では名機として知られる。
「往生しました。どうしたものか、さっぱり分かりませんでしたからね。なぜペダルが逆さまになっているのか分からないし、油をどこにさせばいいのかさえも分からない。説明書は読んだけど、調整も何もかも最初はすべてが手探りでした」
 70年代に入って起こったジーンズの爆発的なブームは、縫製工場のスタイルも変えていった。BIGJOHNでは従来の座って縫うスタイルから、立って縫うスタイルに変えた。座って縫うよりも立ち縫いの方が楽で生産効率が上がるのだ。
「立って縫うためには、生地をミシンに入れたら、自動的にさっとミシンが走る(縫っていく)ように改造しないといけない。改造にはエアーと電気を使いました。当時、BIGJOHNには工場が20カ所あって、その工場をひとつずつあたっての改造ですから何年もかかりましたね」
 ミシンを改造するだけでなく、縫製の流れに関連するロボット機器(ハンガーコンベアー)の開発にも原田さんは携わった。
「ミシンの前に生地を置く装置とか、重ね置きするロボットアームのようなものとか。夜も寝ないでいろいろと作りました。ビジネスとしても今では考えられないぐらい大きかった。ひとつが採用されたら、各工場に20台いりますから」
 この時期が40年のキャリアの中で「もっとも忙しく楽しい時期でもあった」と原田さんは言う。以降、現在まで児島でミシンに携わってきたが、それでも自分の技術を「まだまだ日々勉強です」と言う。
「最近のミシンはエアー、電気に加えてコンピュータが組み込まれている。年々進化しているんだから、こっちはそれに追いつかなければならない。でも、ミシンはやればやるだけ奥が深くて面白い。だから40年も続けてきたわけです」
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 藤田仁志さんは児島では珍しいフリーランスの縫い子。2000年、大阪からバイクに乗って、カバンひとつで児島にやって来た。それまでは大阪のアパレルメイカーで営業企画を担当していた。
「大阪にいる当時は依頼する立場でしたが、ミシンと向き合っているうちに、作る方が自分の肌に合っている気がしたんです。自分で自分が思ったように服が作れるのか。作れないのであればそれはなぜなのか。服の構造の問題か、ミシンの問題か。そういったことを児島で日々探っていきたいと思っていました」
 はじめは、アパレル勤務時代に付き合いのあった児島の縫製工場に出入りして、服作りの流れを勉強していった。そして、1年目にミシンを1台、ユニオンスペシャル35800を購入した。藤田さんがずっと憧れていたミシンだった。
「60年代のもので、ボディの色も見たことがなかった。初めて見たときはスクラップ寸前だったんです。でも、どうしてもこのミシンで仕事がしたいと思って、無理に修理をお願いしてみたら、すごくいい仕上がりになって帰ってきた。ユニオンスペシャルというと、ぼくにとってはギターのマーチンやギブソンみたいなもの。実際、この年代の35800は鉄の質が良く、音がいいから、長く縫っていても疲れないんです」
 藤田さんの仕事は、メイカーから依頼を受けてのサンプル作りが多い。いろんな生地や仕様に対応するには専用にセットアップしたミシンが必要になる。こうして6年前に1台しかなかったミシンが、現在では17台にまで増えた。そのうち、ユニオンスペシャルが5台。残りの12台はアメリカのシンガー、ドイツのPFAFF、国産ブランドなど。ユニオンスペシャルも含めて、どれも中古で安く手に入れたものばかりだ。なかにはもらってきたものもあるという。
「もっとも魅力的だった1930年代から60年代のアメリカンカジュアル&ワークウェア、同年代に活躍したミシンを使うことによって、当時の縫製仕様やデザインのあり方を知ることができる」と藤田さんは言う。「しかし、ひとりでミシンを何台もそろえているというのは、効率からすると悪いですね。決して商売ベースじゃない。それをあえてやっているのは、やはり服を研究したいからなんです。メイカーの企画者は、自身のイメージに少しでも近づけたくていろんな難題を要求してきます。そのイメージとぼくの技術やアイデアがシンクロして、はじめてぼくが活きる。そのためにも、道具なくしてぼくの仕事は成り立たない。効率が悪かろうが、まだまだ必要なミシンはたくさんあります」

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 藤田さんが服の研究者なら、次に登場する高尾昌明さんはミシンそれ自体の研究者と言えるかもしれない。19歳から叔父が経営する電機店の手伝いでミシンの修理を始め、30歳で独立。後に高尾ミシン工業所を設立し、66歳になる現在も第一線でミシンの修理・改造を手がけている。
「叔父の手伝いをしていた当時は、1日に30台から40台ぐらいを修理してました。10年間で10万台ぐらいはやったんじゃないかな。当時は近所のお得意さんだけで縫製工場が120軒あった。児島全体だと2000軒ぐらい。独立したのは、ノルマを気にせず、じっくりとミシンに取り組みたかったから。掘り起こしてミシンのことを勉強できることに、当時は生きがいを感じてましたね」
 90年代までは、ミシンのメイカーから担当者が児島にやって来て、ミシン屋の技術者を集めての講習会が頻繁に開かれていた。どのミシン屋もメンテナンスができないと商売にならなかった。
「若い頃はとにかくよく勉強してました。学生時代よりもはるかに勉強していた。でも、それはみんな同じでしたね。でないと飯が食べられなくなるんだから。昔はよく他のミシン屋の技術者と時間を忘れて議論を戦わせたもんです。面白かったですよ。自分で何かを見つけたら、それが自慢できるぐらいとことん研究した。そうやって少しずつミシンのことを理解していったんです」
 高尾さんの顧客は児島だけじゃない。津山市や広島県、山口県など、広範囲に広がっている。そんな遠方の顧客からは、ミシンの調子が悪くなると、まず電話での問い合わせがある。そんなとき高尾さんは「見たままを話すように」と言う。余計な形容はせず、見たままのミシンの状況を話すようにと。さらに、電話でミシンの音を聞かせてもらうこともある。たったそれだけで、どこが悪いのかが大抵はわかると言う。
「ミシンの設計者の意図にはものすごく深いものがある。昔のミシンの機構に、いまだに驚かされることがよくありますから。その設計者の意図がちゃんと把握できていないと、まともにミシンはいじれない。30歳代でミシンを研究していた当時、ミシンに問いかけられたのを感じたことがあるんです。『なぜこんな動きをしてこんな音がしているか、おまえにわかるか?』と。それからですね、機械のことがくみとれるようになったのは。今もミシンの調子が悪いと、ダダをこねているように聞こえる。『わしはこうしてくれたら動けるんど』という声が聞こえる。その機械の声が聞こえたら、ミシンの修理もそれほど難しくない」
 高尾さんのキャリアはあと4年で半世紀を迎えようとしている。しかし、現在も「ミシンへの興味は尽きない」と言う。
「同じ改造をしていても、次のときには絶対に進化させようと、常にそういう意識がある。これだけやっても、毎回努力しなければならないことがある。ミシンというのは奥が深い。進歩の余地も限りなくあるんですよ」

   
   
   
   
   
   
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