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featuring MIZUSHIMA
MIZUSHIMA THE LAND OF OBLIVION
History Photographed by Yurie Nagashima

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JFEスチール西日本製鉄所・製鋼工場にて。JFEスチールの敷地面積は皇居のある東京・千代田区よりも広い。敷地内2車線の道路には信号がいくつもあり、運搬用の鉄道も走っている。
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三菱自動車工業の北にある亀島山。その地下に無数のトンネルを張り巡らした地下工場があった。トンネルの入り口は現在封鎖されている。
 
 戦前の倉敷の旧市町村図に水島の地名は見あたらない。現在、水島と呼ばれている地域には、東半分が福田村、西が連島村とあるだけ。このことから、戦後に誕生した土地だと誰もが思うだろう。しかし、その誕生は戦後でもない。水島の歴史は戦時中に始まった。

 第二次世界大戦が勃発した1939年のこと。陸海軍の戦闘機や偵察機を製作していた三菱重工業名古屋航空機製作所から岡山県に打診があった。海軍の増産要求に応じて、同社は新工場用地を探していたのだった。折りしも岡山県は工場誘致を希望しており、双方の思惑は合致した。そこで県から新工場の建設地として提案されたのが、現在水島臨海工業地帯のある高梁川東廃川地だった(1926年の高梁川の治水工事によってできた広大な河川敷)。その土地は10年の年月を費やして農地改良を終えたばかりだった。工事に投資していた農民たちはすでに入植していたが、格安での強制買収に応じざるをえず、夢を託した土地を泣く泣く手放した。
 41年に海軍の予算で埋め立て工事が始まった。同年11月には早くも工場の起工式が行われている。そして43年9月、三菱重工業水島航空機製作所が設立され、一式陸上攻撃機の生産がスタートした。このとき、初めて「水島」が地名として採用されている。「水島」という名称は、埋め立て工事のあった周辺の海が鎌倉時代以前の昔から「水島灘」と呼ばれていたことに由来している。
 この水島航空機製作所では、44年の最盛期には3万人にも及ぶ労働者が国内外から動員されていた。さらに、水道や電気、ガス、通信といったインフラの事業にも、全国から多数の技術者たちが動員された。また、工場東に隣接する福田村には、倉敷海軍航空隊(予科練)が発足。14、15歳の若者が動員され、パイロット養成の訓練が行われた。水島は工場の建設からわずか3年で、海軍の重要な拠点として機能していたのだった。

 水島の誕生は朝鮮の人たちを抜きにしては語れない。水島地区には戦前から多くの朝鮮人が住んでいた。県外から動員されてきた朝鮮人も含め、彼らは工場や滑走路、社宅等の建設に携わった。数は定かでないが、労働力確保のために朝鮮から強制連行されてきた朝鮮人も多数いたとされる。当時の日本と朝鮮との関係を象徴するかのように、彼らの労働環境は劣悪を極めていた。
 終戦の前年、水島にも空襲の危険が高まっていた。そこで軍は工場の疎開を計画。いくつかに分散された疎開工場のひとつに亀島山地下工場がある。この工場建設には2000人もの朝鮮人が動員され、実質的な強制労働を強いられた。以下は工場建設に参加していた金原哲さん(1991年死去)のコメントである。金さんは建設中に落盤事故で亡くなった朝鮮人の埋葬を手伝ったこともある。
<交番の巡査が二人、大きな棒をもって晩にバラックをぐるぐるまわるんじゃ。たまには憲兵が来やがる。それで「なんで仕事をせんのんじゃ」というてぶん殴る。「仕事をせん」いうて殴る。「寝るな」いうて殴る。ものを言わなんだら「言わん」、言うたら「しゃべるな」いうて殴る。もう話にならんのんじゃ。履くものもないし、はだしでえろうて昼も夜も仕事できやしませんがな>(『亀島山地下工場』より。発行・亀島山地下工場を語りつぐ会)
 水島には水島の誕生に深く関わった朝鮮人たちの2世、3世たちが今も多く住む。水島北緑町には県内唯一の朝鮮学校である岡山朝鮮初中級学校があり、現在101名の生徒が在籍している。
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 1945年に終戦を迎えたとき、航空機製作所のあった臨海地区は米軍の激しい空爆によって廃墟と化していた。しかし、戦後の水島はこの地区の驚異的な発展によって、日本経済を支える重要な柱として後に全国的に知られることになる。
 51年、岡山県知事に三木行治が就任する。就任時から彼には岡山県を農業県から工業県へと大胆に転換させる青写真があった。その鍵となる地が水島だった。工業用地に適していること、豊富な地下水により工業用水を確保できること、大型船舶のための港湾施設の建設が可能なことなど、水島は工業地帯として極めて高い可能性を秘めていた。
 53年には本格的な開発がスタートした。三木知事の構想は常識をはるかに超え、膨大な予算が投入されていた。当時、「水島に使う金はひきだしが違う」とまでいわれていた。同時に知事は企業の誘致に奔走した。その後の発展の礎となった三菱石油の誘致のために、300回以上も自ら企業に足を運んで説得したという逸話も残っている(同社進出の条件だった水深16mという世界に例のない港湾建設にも着手している)。こうして58年に三菱石油の水島への進出が決定。3年後には世界第一級の生産規模を誇る川崎製鉄も進出を決めた。
 石油、鉄、電力、そして三菱自動車工業水島自動車製作所を擁する機械産業。水島は年率50%近い高度成長を続け、60年代の終わりまでに日本有数の工業地帯へと発展。70年代には食品コンビナートも備え、世界的な工業地帯として知られるようになる。

 工業地帯の成長にともない、社宅の建設ラッシュが続いた。著しい人口流入によって、水島の街も発展していった。水島で働く労働者たちの家族や、寄港した海外からの船員たちで商店街は盛況を極めた。商店街に隣接する歓楽街も同様だった。岡山・倉敷にまとまった歓楽街がなかったこともあって、水島の夜は他地区にはない賑わいを呈していた。
 順風満帆のように見える水島にも、しかし、大きな課題があった。60年代から社会的問題にもなっていた公害である。水島にも、岡山県の特産であるイ草の先枯れや、工場廃液による魚の大量死・異臭など、実際の被害が出始めていた。岡山県と倉敷市は即座に公害の規制に乗り出し、住民や周辺の産業を配慮しての神経戦のようなやりとりが繰り広げられた(設備の現代化にともない、今では工業地帯の公害が社会で注目されることはなくなったが、現在も公害への対策は企業の重要な課題になっている)。
 日本の経済成長を支え続けた水島にも斜陽の時期が訪れる。80年代半ばのバブル崩壊の影響を受け、撤退・規模縮小を余儀なくされた工場が相次いだ。空き家の目立つ社宅、店舗の半分はシャッターを閉めたままの商店街など、現在の水島の姿にはバブル崩壊後も長引いた不況の影響がもろに表れている。
 誕生から約65年。水島はスポットライトから大きくはずれてしまった。しかし、忘れ去られたわけではない。倉敷に赴任以来、水島を見続けている倉敷市立精思高校の土屋篤典教諭はこう言う。
「戦争がどういうものであったか、当時、日本とアジアがどんな関係にあったか。戦後、都市や企業がどう発展していったか。水島という一地域にいろんなものが見てとれる。水島の歴史には、日本の近代から現代への歴史が凝縮されているんです」
 水島の魅力は常に時代の今を見せてくれること。偽りなくストレートに。都会とはまったく違った、水島というその土地なりの姿で。

参考資料/『水島臨海工業地帯』(日本文教出版)、『総動員の時代』(吉備人出版)、『亀島山地下工場』(亀島山地下工場を語り継ぐ会)
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