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2005年9月発行の創刊号から数えること10号。まさに山あり、谷あり、思えばいろんなことがありました。涙なくしては語れない5年間、全10号をいまだから語れる秘話も交えて編集長が振り返ります。

Vol.1 2005年9月発行

手探りで試行錯誤しながら粘土を成形するように作っていったのがこの創刊号。いま見返すと、内容とデザインともに迷いながらやっているのがわかる。でも、ほかの号にはない初々しさも感じる。アートディレクター(AD)とデザインを練りあげていくやり方はこの号からすでに始まった。表紙の廣中薫さんのイラストは候補が複数あって、ADのニシハラヤスヒロくんとぼくが選んだものは異っていた。最終的に採用したのはニシハラくんが選んだ作品。彼のセンスを信じて断然正解だったと思えるほど、いまはこの表紙に愛着がある。

Vol.1 2005年9月発行

なんといっても、水島工業地帯を撮った長島有里枝さんの写真に尽きる。この写真のプリントがあがってきたときの鳥肌がたつような感動! まさに編集者冥利に尽きる。しかし、作品が素晴らしいだけに、工業地帯の写真の見せ方には相当迷った。結果採用した長島さんの提案、10ページ連続で同じアングルの写真を5点見せるという大胆なやり方が、その後のKJの構成や企画自体にも大きく影響を与えている。「誰に遠慮することなくやりたいようにやる」と、そんな雑誌の態度が明確になった記念すべき号でもある。

Vol.3 2006年9月発行

企画それ自体や見せ方のアイデアでは、10号を通してついにこの号を超えることはできなかったと思っている。それぐらい、子供たちの絵で大原美術館の作品を紹介するというアイデアは気に入っているということ。さんざん考え抜いた末にその案を思いついたときは、素直に神様に感謝したほどだ。それにしても、子供たちの絵は予想していた以上の最高の出来だった。子供たちの選出のために、ワークショップや絵画教室に出かけた甲斐があった。神からの贈り物のようなアイデアとその手間が実を結んだ1冊。結局、自画自賛。

Vol.4 2007年3月発行

前の3号で銀行から借りたお金が完全に底をつき、東京の家を引き払って倉敷に完全移住しての再スタート。ADも岡山在住の鈴木タオルにバトンタッチした。お金がないというわりに、下津井で創作してもらうために4人の作家や写真家を海外や東京から招聘したり、ファッションの撮影でわざわざポーランドまで行ったり。当時は完全に開き直りの心境で雑誌を作っていた。おまけに、下津井特集に合わせて下津井節を編曲したオリジナルCD『スモツイ』まで制作。勢いあまってのCDは現在も倉庫に約1000枚が眠っている。

Vol.5 2007年9月発行

ガラっと雰囲気を変えて地方版『環境白書』にしようとしたのがこの環境特集号。慣れないことをしようとしたがために、思わぬ苦労の連続だった。アンケートや取材の下調べなど準備段階からかなりしんどかった。記事を書くのにさらに苦しみ、あまりにしんどくて血尿が出た(後に腎臓結石と判明)。この号を発行する直前から、児島の観光旅館で早朝からアルバイトを始めた。これがまたしんどくて、わずか1カ月で体脂肪率10%を切った。なお、この号ではKJが開催していたエディター塾の生徒がページを担当。新しい試みにも挑戦している。

Vol.6 2008年3月発行

倉敷に伝わるミステリーを集めた特集。心霊スポットや都市伝説を紹介するなど、最初はもっと俗っぽい特集をイメージしていた。でも、企画を集めていくうちに、当初予想していたよりもずっと硬質な特集になった。おかげで片岡浩一クンのおバカな4コママンガが浮いてしまった感があるが、『BRUTUS』的にカッコ良さを貫き通せないところがKJらしくて好きだ。ファッションでは2度目のロンドン撮影を敢行。当時ポンドがとんでもない高値で(約250円)、クリスマスシーズンにものすごく貧乏な気分を味わった。表紙の撮影はサンパウロにて。

Vol.7 2008年9月発行

この号から3代目ADとして渡部龍クンが参加。喫茶店の写真を連続で見せる特集約20ページのレイアウトがしっくりいかず、印刷所にお願いして、普段のKJではやらない2度目の校正を出してもらった。その再校を編集長権限でさらに大幅変更。大変なのはADの龍クンである。彼にとっては最初のKJの仕事がいじめのようなことになってしまった。一方のぼくも入稿前から突然首が回らなくなり大変な事態に。まさに珍道中だった。ファッション撮影で登場したモデルのシュウとカカは、観光旅館で一緒に働いていた中国人研修生。

Vol.8 2009年3月発行

KJ史上最大のプロジェクトとなった写真特集号。「写真を撮っていただけませんか?」と森山大道氏本人に手紙を書いてから実現までに約1年半かかった。長島有里枝、安村崇、ローランド・ハーゲンバーグに岡山の池田理寛。この5名の写真家が倉敷で撮ったオリジナルの写真を1冊の雑誌に掲載する。こんな贅沢きわまりない企画がフリーマガジンでよくぞ実現したと我ながら思う。直後に大原美術館で写真展も開催。ちなみに安村さんとはこの撮影が縁となり、山陽新聞の130周年記念号「地方人宣言」を一緒に作った。

Vol.9 2009年9月発行

ごくごくありふれた、ごくごく小さな世界で特集を作る。雑誌ではまずありえないことだけに、常々やりたいと思っていた。トリオ食堂はこれ以上ないほどにズバリだった。店のたたずまい、働く人たち、出される料理、常連客、編集者として見てどれをとっても一級品の魅力があった。「地方都市の魅力を見せる」というKJのコンセプトを、ほかのどの号よりも楽しく誌面に落とし込むことができたんじゃないかと思う。と、またまた自画自賛。なお、この号でも海外取材・撮影を2度にわたり敢行。地方の雑誌でこんなに海外に行くとは夢にも思わなかった。

Vol.10 2010年3月発行

撮影を始める半年ほど前に、2年間貯めた500円玉貯金を崩してmakina67を購入。このカメラにしたのも、特集の写真をぼくが撮るというアイデアも安村崇さんの提案によるもの。以前、「最後の特集の写真を撮ってもらえませんか」とお願いしたら、「赤星さん、自分で撮ったら?」と。そんな手があったかと目から鱗が落ちる思いがした。現像のあがりの出来不出来に一喜一憂する日々は半年以上つづいた。本当に特集になりえるのかと不安だった。結果はご覧の通り。どんな評価を受けようとも、いまは自分で撮ってよかったと思っている。