Krash Novel

アンダーグラウンド

第二章新宿駅西口地下広場
1
image1

赤いはちまきをした男たちが笛の先導に合わせ、ゆっくりとした歩調で練り歩く。四十人はいるだろうか。内臓を内から震わせるようなかけ声が新宿駅西口の地下広場一帯に響き渡る。
 男たちの傍らで警官隊やガードマンが数珠繋ぎになってバリケードを築き、都庁へと通じる地下道を封鎖している。彼らはかたく口を結び、奥行きのない冷めた目で行進を見ている。行進している男たちの多くは、地下道の住処を追われた浮浪者を支援する支援団体のメンバーたち。当の浮浪者たちは避難所のまわりで突っ立っているか、自分たちの寝ぐらで横になって他人ごとのようにそれらの光景を眺めている。寝ぐらをもっているのは撤去の前にあらかじめ荷物をまとめてこの地下広場に移動していた浮浪者たち。彼らは地下広場に点在するように、毛布と布団だけの寝ぐらを構えている。都の撤去に最後まで抵抗した浮浪者たちは寝ぐらをもたない。抵抗の挙句、ダンボールの家は壊され、わずかな家財も没収されてしまった。そんな抵抗派は支援団体と行動をともにし、生活も団体の援助に頼っていた。
 地下広場の一角、新宿インフォメーションセンターと地下ロータリーの間に浮浪者たちの仮避難所が設けられている。鮮やかなブルーのシートの上に浮浪者と支援団体のための毛布が山積みされている。中央には大きな石油ストーブが炊かれ、そのすぐ前で細い目の青年が拡声器を手に演説をつづけている。青年の周囲には撤去を非難する声明文や手書きのポスター、浮浪者たちが清掃している姿を写した写真などが無造作に置かれている。音という音がぶつかりあっていた。JRの改札からこぼれてくる電車の音、アナウンスの声、無数のかたい靴音、タクシーのクラクション、テープレコーダーから流れてくる演歌、ろれつの回らない男たちの罵声、若い女の笑い声、夏の雲のようにぶ暑い広場のざわめき。風が吹いていた。しかし、広場の異様な喧騒はどこに押し流されるでもなく、暴力の気配と腐りかけた皮革のような匂いとともにその場に淀んでいる。
「ここは落ちつかねえ、騒がしいったらありゃあしねえ」
 男は舌を鳴らし、コップに注いだ酒をぐいとあおった。そのがっしりとした体躯の男は、皆からオヤジと呼ばれている。陽焼けした顔は岩のように骨ばって、皮膚はたるみ、笑うと溝のような深い皺が顔をすっぽり呑みこんだ。オヤジは季節などおかまいなしで、いつも耳隠しのついたハンティングキャップをかぶっている。自慢のそれは左の耳隠しの留め金が壊れ、時折だらりと耳にかぶさる。
「おれがなんで酒を飲むかわかるか? そりゃおめえよ、そこに酒があるからよ」
 支援団体のかけ声が響き渡るなか、オヤジはそう言ってしわがれた声をなお押しつぶすようにして笑った。
「オヤジ、全然面白くないんだよ」
 ザキが言いながら、オヤジが手にしたワンカップの空き瓶に酒をなみなみと注いだ。
「酒はおれの人生のようなもんよ、哀しいんだよ、哀しいんだよ。酒飲んで忘れられるなんてウソっぱちよ。ほんとの哀しみなんて、酒飲んだぐらいで忘れられるかよ。逆だよ、逆、逆さまだってえの!」
「よくわかんねえなあ。オヤジ、相当酔っ払ってるな」
「誰が酔ってるって? おれはこの十年酒に酔ったことなんてねえんだよ。一度でいいからおまえみたいに心底酔っ払って、小便漏らしてみてえもんだぜ」
「おいおい、聞き捨てならねえなあ。誰が小便漏らしてるって?」
 オヤジに向かって叫ぶように言うと、だしぬけにシンに訴えるような目を向けた。
「ほんとかよ? おい、シン、なんで笑うんだよ? おれ小便漏らした? いつだ?」
 オヤジが太い声を響かせて言う。
「いつって一回こっきりじゃねえんだよ、しょっちゅうなんだよ。チエなんか、おめえのズボン、何回洗ってると思ってんだよ」
 チエが小さな手を口にあて、くっきりとした二重の大きな目をザキに向ける。ザキとシンに向かい合うようにして、チエは柱に背をもたせて座っている。薄手のセーターの上にオレンジのスウェットパーカーを羽織り、首元にはストライプのウールのマフラーを巻いている。笑うと両の目尻に深い皺が走った。それは年齢を感じさせるものではなく、かえって笑顔に豊かな表情を添えていた。齢の頃は三十代前半あたり。まだ三十に届いていないのかもしれない。いずれにせよ誰も仲間の年齢をはっきり知らない。そこでは年齢など何の意味もない。
 チエの隣に寄り添うようにして長身のマキタが座っている。マキタはチエの亭主ということになっている。半年ほど前にふらりと新宿にやってきて、それからしばらくしてチエと暮らすようになった。以来、チエはことあるごとにマキタを亭主だと言った。マキタは口数の少ない男だった。浮浪者には珍しく、色白の育ちのよさそうな顔におだやかな笑みを浮かべて話に耳を傾けていた。

image2


 オヤジとザキ、チエ、マキタ、それにシンを加えた五人は自然発生的なグループを作っている。彼らは食料や酒、医薬品を分け合い、金を得た者がグループのなかで必要なものを購入した。金に余裕があればみんなで安い居酒屋に飲みに行くこともあったし、後楽園の場外馬券売り場に馬券を買いに行くこともあった(新宿にも場外はあるが、最低単位が千円なので、百円から買える後楽園まで足を運んだ)。
 彼らの収入源は主にふたつある。ひとつはマンガや雑誌の収拾。駅のホームや電車の網棚から集めた本を「百円本屋」と呼ばれる露天の本屋に売るのである。これはマキタの収入源だった。彼は新宿・代々木間の定期券を購入していて、キセル乗車でJRを広く移動していた。中央線の立川あたりまで足を伸ばすことも珍しくなかった。手にもった紙袋はすぐに一杯になるので、何度も露天との往復を強いられ、決して割のいい仕事ではなかった。それでも辛抱強いマキタは日に五千円も稼いでくることもあった。
 もうひとつは早朝に手配師が募る日雇い仕事である。仕事は不定期で、数日続くこともあれば丸一週間も仕事がないときもあった。シンとザキはこの手配師から仕事をもらって日雇い仕事に出かけていた。オヤジは働きに出ることはほとんどなかったが、食料の調達に長けていた。「お得意さん」と呼ぶ小料理屋やコンビニエンスストア、ファーストフード店を何軒も抱え、その日の料理の残りや賞味期限の過ぎた弁当、販売の規定時間を過ぎたハンバーガーなどをもらってきた。
 ここ西新宿には彼らのようなグループがいくつも点在している。グループ同士でないものを交換したり、差し入れをし合ったり、金が入ったときはおごり合う。浮浪者たちが皆知り合いというわけではない。現在ここにいる浮浪者たちは百六十人ほど。多いときには六百人を超えていた時期もあった。不況で浮浪者の数が膨らんだ九十四年には、浮浪者同士の盗みが多発し、グループ間のいさかいも少なくなかった。三人の浮浪者が浮浪者の手によって惨殺されるという事件も起こっている。しかし、彼らのほとんどは争いを好まない。都の指示通り、事前に住む家をたたんだ浮浪者が多かったのも彼らのおとなしい性格からだった。
 シンたちもめいめい撤去の前にダンボールの家を片づけ、長い間寝ぐらとしていた都庁近くの通路を出て行った。いまは地下広場のインフォメーションセンターの北側を寝ぐらとしている。そこは京王モールと呼ばれる地下商店街と仮避難所のほぼ中間にあたる。今回の撤去で家をたたんでからはグループで共同生活をはじめていた。皆の布団をそこに拡げ、たたんだダンボールは床に敷き、あまったダンボールはカートに積んでいる。明日また撤去されるかもしれないその場所で、ダンボールの家を組もうとする浮浪者はいなかった。
「小便漏らしてるってホントかよ?」
「本当だって言ってるじゃねえかよ」
 オヤジが低く声を響かせる。
「ああ、糞っ! でもよ、まさか赤ちゃんがおしめ換えるみてえにあれするんじゃないだろうなあ。もしもそうならよ───」
「赤ちゃんがおしめ換えるみてえにやらないで、どうやって面倒見れるんだよ、えっ?」
「やめろよ、嘘だろ、おい? ああ、もう何も言うな、言わなくていい。畜生! 酒が悪いんだ、なんもかんも酒のせいだ! いや、酒じゃねえ、おれのここが悪いんだよ! そういやあ子供の頃からよくやってたんだよ、この糞っ!」
 言いながらザキは左手でズボンのチャックのあたりを握りつぶすようにした。
「嘘ですよ、嘘」
 ザキが振り向くとマキタが色白の顔にやさしげな笑みを浮かべていた。
「ザキさんはべろべろに酔ってても足もとはしっかりしてるんです。何も言わずに自分でトイレに行って、履き替えて帰ってきますよ」
「だろう! マキさん、よく言ってくれた。それにひきかえ、この糞オヤジだよ。糞オヤジ! あれ出せよ、あれ! 知ってるんだよ、あんたが鰯の蒲焼の缶詰を隠してるの」
 シンたちがいっせいに声を出して笑った。周囲を行き交う人たちが不思議そうな目を彼らを見ていた。

 デモ行進が広場を離れ、JR改札口方面に向かった。男たちのかけ声がわずかに遠くなる。彼らがいなくなると、広場はさっきよりもはるかに広くがらんとして見えた。
「そういやあオヤジ、昼間シンを捜してたよな?」
「おお、なんだっけな。そうそう、いつもそこの裏んとこに寝てたじいさんよ、昨日の夜におっちんじまったんだと。オレも今日はじめてそれ聞いてよ」
 シンは素っ気無く、そうとだけ返した。
「線香あげに行くか?」
「うん、そうですね」
 シンはそう言って重そうな腰をあげた。躰が鉛のように重かった。オヤジがザキに封を切っていない真新しい煙草を出すように言った。オヤジはひったくるようにザキから煙草を受け取ると、シンに目をやることなく、広い背中を見せ京王モールに向かってすたすたと歩いていった。
 去年の暮れもおしせまった夜のことだった。京王デパートの前で眠っている老人をシンが見つけた。衰弱し、意識は朦朧としていた。すぐに地下広場の交番に行き、警官を連れてその場に戻った。警官とシンのふたりで男をシンの寝ぐらに運び、毛布をかけてやった。警官は、あんたらで面倒見てやってくれと言い残して交番に戻った。翌朝、男はシンに礼を言って、ふらつく足で自分の寝ぐらに帰っていった。その日以来、シンは数日に一度男の寝ぐらに様子を見に顔を出した。十日ほど前に、男を誘ってシンたちの寝ぐらに連れ出した。オヤジが鍋をふるまった。男はふた口ほど箸をつけてから、うつむき、泣いた。そして何も言わず、深々と頭を下げると寝ぐらに帰っていった。それが男を見た最後だった。
 ワンカップの小瓶に花が一輪活けられていた。その隣に同じ瓶がひとつ、そこには半分ほど土が入っている。フィルターだけになった煙草の吸殻が一本、その土に埋まっていた。オヤジはザキからもらったハイライトの封を開け、シンに差し出した。シンは煙草を受け取り、火を点けると、オヤジのくわえた煙草の先に火を差し出した。ふたりとも一口だけ深く吸って、すぐにフィルターを下にして瓶のなかの土に差し入れた。細い紫煙が瓶のなかから立ちのぼる。ふたりは同時に両手を合わせ頭を垂れた。その場を通り過ぎたサラリーマンが怪訝そうな顔で振り返って見ていた。
「結構元気になってたのになあ」
「あのとき、鍋食ってたとき───」
「よっぽど嬉しかったんだろうな」
 本当に嬉しかったんだろうかとシンは思う。じいさんはあのとき、哀しくて仕方なかったんじゃないだろうか。
 オヤジが黙って煙草に火を点けた。ふたりは何も言わず、ただそこに佇んでいた。瓶のなかの煙草が三分の二ほど燃えて、長い灰をぽろりと落とした。
「年寄りにはやっぱり冬はつらいね」
「これで年が明けてからふたりめだ。これからまだ寒くなるかもしれねえってのによ」
「オヤジ、ここで死んだらどうなるの?」
「どうなるも糞もねえ。身元がわかりゃいいが、わからなきゃそれまでよ。犬っころと一緒だ」
「犬か」
「そう、犬と同じよ」
 おやじが煙草をくわえたままもう一度手を合わせた。ハンティングキャップの耳隠しが、開いた本が閉じるようにだらりと耳の上に落ちた。

2
image3

寝ぐらに帰るとシンの見知らぬ顔があった。男は車座の中央で紙コップを手に座っている。長い髪が黒々と濡れたような光を帯びている。色つきの眼鏡で男の目は見えないが、シンに向けた顔はかすかにこわばって見えた。浮浪者でないことは一目でわかった。男は座ったまま、お邪魔してますとシンに言った。酒のせいだろう、首のあたりが赤らんでいる。
「斉藤といいます、雑誌の記者をやってます」
 そう言って斉藤は一冊の雑誌をシンに手渡した。
「まあまあ売れる雑誌だぜ」
 得意げな顔でザキが口をはさんだ。
「渋谷じゃ四十円だったよ」
 ザキは渋谷の百円本屋で売り子をしていたことがあった。ザキの言う「四十円」は買い取りの価格だった。その店では大抵が三十円で、とくに売れる雑誌だけ四十円で買い取っていた。
「あの、煙草あるんです」
 唐突に言って、斉藤は黒いダウンジャケットのポケットからショートホープを二個取り出した。
「取材よ、雑誌の取材。何日かここにいたいんだってよ」
「なんでおれがショートホープ吸ってるって?」
「昼にオヤジさんに聞いたんです」
 斉藤はそう言ってオヤジをちらと見た。シンは一瞬ためらってから手を伸ばし、何も言わずに煙草をアノラックのポケットに入れた。
 昨日の朝から新聞社やテレビ局の連中が大勢押し寄せていた。シンはマスコミの人間が嫌いだった。記者やレポーターと自称する人種にはふたつのタイプがある。蔑みや哀れみを隠すために努めて事務的に接するタイプと、初対面から仲間のように振る舞い、一緒に酒を飲みたがるタイプ。シンはとくに後者が嫌いだった。奢った人種だとシンは思う。
「なんで昨日じゃなくって今日取材なの?」
 チエが訊いた。
「昨日の夜に東京に帰ってきたんです、沖縄から」
「沖縄だってさ、言うことが違うわよね」
「それにしても、寝袋もってくるなんて気合が入ってるよな」
「本当はここに泊まらなくても記事は書けるんです。何人かに話を聞いて、都の方にも電話で話を聞けば。四ページぐらいの記事ですから。でもおれ、本を書きたいんです」
「ホン?」
 ザキが眉を八の字にして繰りかえした。
「ええ、本です。ここ何日かの新宿の話をノンフィクションの本にしたいんです」
「あんた、作家かよ?」
「いえ、本を出したことはないんですよ」
 照れくさそうに言った。
「いまはただの雑誌記者です。でも、いつかは本を出したいと思ってたんです。これまでもずっと題材を探してたんだけど、これっていうのがなかなかなくって。でも、昨日の夜中にニュースで映像を見て、感じるものがあったんです」
「それでどうよ、ここの感想は?」
「僕の勘は間違ってなかったと思いますね。さっきから考えてたんだけど……ここはカオス、混沌そのものです。もつ者のエゴ、もたざる者の怒りや哀しみ。文明とその歪み、主義とその歪み。それらすべてが同時にこの狭い空間でぶつかりあってるって感じです。それに、ここにはたしかに暴力の予感が満ちてる。はっきり言ってかなりヤバいです」
「なんかよくわかんねえな。シンよ、おめえは?」
 シンはザキに目だけやって首をすくめて見せた。
「今日、何人もの浮浪者の人たちに話を聞いてみたんです。みんな相当イラだってましたね。誰かに訴えたくて仕方ないって感じでした」
「家を壊されて、そのうえむさくるしいのに扇動もされりゃ、そりゃイラつくだろうよ。それによ、支援団体の配給目当てで流れてきてる奴らもいるからな。上野や浅草あたりからだって来てる奴らがいるんだ。前からいた連中には、それが気に食わねえって奴らもいるよ」
「支援団体の人たちも気がたってるみたいですね」
「あいつら、おれたちがあんまり協力しねえもんだから、それでよく思ってねえんだよ」
「川田さんがいてくれたらね」
 チエがつぶやいた。
「誰ですか、川田さんって?」
「山谷争議団の幹部よ」
 オヤジが耳隠しをいじりながら言う。
「昨日、パクられちまったのよ、公務執行妨害で。おれたちの面倒を本気でみてくれてよ。かなり前からここにいたよな。あの人がいるっていうだけで、もめごとも起こらないんだ。起こったとしても、必ずその場にいてうまくおさえめてくれるんだよ。そりゃあスゲえ人よ。あんなに頼りになる人は、いま残ってる奴らんなかにはいねえな」
 シンは川田の顔を思い浮かべていた。骨ばった四角い顔。目じりの下がった細い目に、言い知れぬ強さと厳しさと、やさしさが同居していた。
───シン、何もやらないで世界が変わると思うなよ。
 川田はよくシンに向かってそう言った。一度だけ、何をやっても変わらないとシンは返したことがある。すると川田は言った。
───おまえが変わるんだ、おまえが変わればおまえの世界が変わる。
「この帽子、誰んだか知ってるか?」
 だしぬけにザキが自分の帽子を指して斉藤に訊いた。斉藤は知るよしもない。
「川田さんのだよ。昨日の朝によ、おれ、警官に向かっていこうとしたんだよ。そしたら誰かが止めるんだ、腕をつかんでよ。川田さんよ。かわいげな笑みを浮かべてよ、目だけで行くなって言うんだよな。それで帽子を脱いでおれにかぶせて、何も言わないままひとりで警官隊に向かっていったんだよ。あの人はそういう人よ」
「なんでザキなんかに帽子をあげたんだろう」
 からかうようなまなざしでチエが言った。
「そりゃおめえ、あとはおまえに任せたってことに決まってるだろう?」
「あんたに何を任せるってのよ?」
「いろんなことよ……チッ、うるせえなあ。だからよ、おれは何があってもここにいなきゃいけねえんだ。逃げられねえんだよ」
「一番の小心者がよく言うぜ」
 オヤジが言うと、シンとチエが同時に吹き出した。
「誰が小心者だってえ?」
「本当に警官隊に向かっていこうとしたのか? 逃げようとして腕をつかまれたんじゃねえのか?」
「うるせえなあ! おれはあいつらに植え込みの鉢、投げつけてやったんだよ! あんときテレビがいたからよ、映ってるんだよ、絶対!」
 いつの間にか、紙袋をもった浮浪者がひとり、ザキの横に立ってた。ザキが興奮した目で男を見ると、一杯だけ飲ませてくださいと弱い声で言って頭を下げた。ザキはマキタに合図して紙コップを取ってもらうと、何も言わずに毛布をめくり、半斗樽の口だけ外に出して酒を注いだ。男はコップを受け取ると、卑屈な笑みで、ありがとうございますとだけ言って去っていった。
「シンとオヤジがあっち行ってるときにもよ、ふたり来たんだよ、酒くれって」
「それでひとりを追い返しちゃったんだよね」
「おうよ、おれに紙コップ差し出してよ、何にも言わねえんだよ。ほれ、注げって感じでよ。おととい来やがれって言ってやった」
「さっきから思ってたんだけど、なんで毛布の下に酒を隠してるんですか?」
「なんでって、盗られるからよ」
 そう言ってザキは毛布の上から二度樽を叩いて見せた。
「こんなのもってるって知られたら危ねえんだよ」
「何があってもおかしくねえんだよ、いまは」
 オヤジが深刻な面持ちを装って言った。
「襲われかねないんだよ。それでなくっても、おれたちゃもってるもんが多いから妬んでる奴は少なくねえ。荷物をもたずに躰ひとつで逃げてきてる奴らもいるんだよ。普段はよ、みんなおとなしい奴らなんだぜ。でも状況が状況だからな。酒はもちろん、サンダルだって油断すりゃいかれちまう。何年か前にここで殺人があった頃のよ、あんときの雰囲気に似てるわな。だからおれたちはみんながここを空けるこたあしねえ。トイレに行くときだって、誰かが必ず番をしてるんだ」
 突然オヤジがマキタの頭を指さした。
「おい、マキさん、頭見せてやれ」
 マキタは黒いウールのキャップを目深にかぶっていた。
「いいですよ、見せるようなもんじゃないですから」
「ここがどんなところかっての、見せてやった方がいいんだよ」
「そうよ、あんたニコニコばっかりしてないで、ほら」
 チエが腕を伸ばしてキャップをひょいと脱がせた。斉藤が一瞬眉をひそめた。マキタの頭は白い包帯に覆われていた。
「どうしたんですか、それ?」
 マキタはただ照れたような笑みを浮かべているだけだった。
「突然襲われたのよ」
「誰がやったんですか?」
「それがいまもわかんないの。この人も見てないって言うし。トイレで倒れてたのをサラリーマンが見つけて救急車を呼んだのよ。結局、何針縫ったんだっけ?」
「忘れちゃいました」
「二十針だか三十針だか縫ったんだよ、ねえ?」
 斉藤はポケットから小さなノートを取り出し、さっきからしきりにペンを走らせていた。眼鏡の奥で切れ長の目をらんらんと輝かせている。 「後ろからいきなりやられて、トイレに引きずり込まれたんだって」
「相手はひとりだったんですか?」
「わからないんです。トイレに連れていかれたのも憶えてないんです」
「警察に行ったんですか?」
「病院に来たんですけど、それだけですよ」
「そんなの、ありえないですよ」
  ありえない、と斉藤はもう一度つぶやいた。
「新宿はよ」
  低くしわがれた声でオヤジが言った。
「ハンパなところじゃねえのさ」

Back Number