Krash Novel

アンダーグラウンド

第一章 1996年1月25日午後
5
image1

陽はとっぷりと暮れ、人通りの増した繁華街にネオンが氾濫している。さまざまな人種がさまざまな夜をもとめてそぞろ歩く。新宿・歌舞伎町───いつもとなんら変わらぬこの街の、冬の夜が始まる。
 やせた男がひとり、タバコを手に街灯の柱にもたれている。陽に焼けた顔は薄汚れ、顎から口のあたりにのびたヒゲは焦げたカツのように黒々としている。ぼやけた外見のなか、しかし目だけは異様に鋭い。男が立っているその場所は細い通りが交わるT字路の角。一方の通りは小さなブティックやポルノショップやテレクラが無秩序に軒を並べ、もう一方はさらに細い路地で、スナックや小料理屋がひしめいている。男はこの細い通りを背にして、ときどき思い出したように店から洩れるほのかな灯に照らされた小路に鋭い目を向けていた。
 足もとに捨てたタバコを拾い上げ、短くなったその先に火を点けようとして、男は軽トラックが男の反対側から小路に入ってくるのを見た。軽トラックは一軒の小さな料理屋の前で停まった。運転席から木綿の前掛けをした中年の男が出てきた。サイドミラーで自分の顔を見て、髪に手をやってから荷台に回ると、一升瓶が入ったケースを両手にもってその料理屋に入った。男は息をひそめたままその様子を見届けると、一度真っ赤なキャップを目深にかぶりなおし、車に向かって歩き始めた。一足ごとに大きな石をまたぎ越すような歩き方だった。足を繰り出すたび、ふりこのように右肩が肩から大きく上下し、左の脚が伸びきると猫背の背がまっすぐに伸びる。壊れた人形のようにも見えるが、速度は決して遅くはない。
 男はまっすぐ通りの先に視線をおいて、そのまま軽トラックを通り過ぎようとした。と、幌をかぶせた荷台にさっと手を伸ばし、身軽な動作でひょいと荷台に飛び乗った。そして荷台のなかに姿を消したと思うと、またすぐになかから顔をのぞかせた。男はビニール容器に入った業務用の半斗樽の日本酒を両腕に抱えていた。子供を寝かせるようにいったん荷台の最後部に置いて車を降りると、すぐにまた荷台に向き直り、半斗樽を両手で抱え、例の壊れた人形のような歩調で車から遠ざかっていく。すぐにふたりのサラリーマンとすれ違った。彼らは男が半斗樽を抱えて車から降りるのを目にしていたが、何も言わず通り過ぎた。
 男はそのまま小路を通り抜けて靖国通りに出、人の波に呑まれようとしていた。そのとき誰かが男のセーターの裾を掴んだ。反射的に振り返った。男はしばらく事態が呑み込めないという風で、頭で理解した後も言葉が出てこなかった。
「あ、おっ、おめえ! シ、シンじゃねえかよ!」
 シンは押し殺したような笑みを浮かべていた。
「よお、ザキ。見てたよ」
「み、見てたよじゃねえよ! 心臓麻痺起こしたらどうしてくれんだよ!」
「それ持ってやるよ、ほら」
 ザキは細い腕を伸ばし、半斗樽をシンに突き出すと、作業用のズボンからタバコを取り出し火を点けた。酒がきれているからか、あまりに驚いたからか、タバコをもつ指が震えている。
「はじめて見たけど、危なっかしいな」
 ザキはふんと鼻を鳴らして歩きはじめた。
「大丈夫だって、おれはプロだぜ。知ってるか? コツがあんだよ。慌てない、キョロキョロしない、振り返らない。これが基本なんだよ」
 タバコの煙を一度たっぷり肺につめこんでつづける。
「でもな、今日のはありゃあ安パイよ。シン、いつから見てた? 酒屋のあのオッサン見たかよ? あいつがあそこの料理屋の女将に入れあげてるみてえなんだよな。あの料理屋、おれのお得意さんでよ、板さんが教えてくれたんだ。あいつ、いつも店を開ける十五分ぐらい前に配達に来てよ、自分で缶ビールを一本だけ持ち込んで飲んで帰るんだってよ。それを板さんが憎らしく思っててよ、あそこの女将がまた色っぽいからな。それにしてもおめえも人が悪ィぜ。シンがいるってわかってりゃ、もう半斗いけたのによ」
「十分だろう。これだけあれば三、四日はもつ」
「どうだろうな、支援グループの奴らだって、くれって言われりゃやらねえわけにゃいかねえからな。でも、これでしばらくは朝から晩まで酒が飲めるぜ」
  灰色の歯を見せザキが笑った。小路で見たときよりも右肩が大きく、速いリズムで上下していた。
 人の流れは新宿駅に近づくにつれ膨らんでいった。ほとんどがシンたちと反対方向に、歌舞伎町方面に向かって流れている。昼間とはうってかわった人いきれに、シンはむせかえるような思いがした。大声をあげながら歩く髪を染めた若者たち、若いOLの腰に手をしのばせた中年のサラリーマン、素足にだらしなく伸びきった白いソックスをはいた女子高生、うつむき加減で独り言を言いながら一点を見つめて歩く男、通りのまんなかで立ち止まり携帯電話で大声で話す男、行き交う女に鋭い目を向ける不自然に日焼けした顔の男たち、白いベンツの窓から顔をのぞかせ駐車スペースを探しているヤクザ風の男、風俗店の看板を手に立っている浮浪者然とした身なりの男───その男の前でザキは立ち止まり、ポケットからワンカップの空き瓶を取り出し手渡した。

image2


「おじさん、寒いだろ? まあ一杯やんなよ」
 男はかたい表情をほころばせ、悪いねと返す。シンはその場で半斗樽の栓を開け、男に注いでやった。男の手袋の上に少しだけこぼすと、すぐさま男は蒼黒い下で手袋をなめた。
「じゃあ頑張れよな」
 言ってふたりは男をあとにした。看板を手にした男は、家族との別れをかみしめるかのように、彼らの後ろ姿が見えなくなっても彼らの去った方向に躰を向けたままで酒に口をつけようとしなかった。
「ところで、シン、おまえ昼からどこに行ってたんだよ?」
 おもむろにザキが訊ねた。ふたりは西口に抜ける高架下の細い通路を歩いていた。
「面接に行ってたんだ」
「なんの?」
「警備会社」
「おうおう、面接かよ。それでどうなったんだ?」
 駄目だよ、と言ってシンは悟られないほどの薄いため息をついた。
「うまくいかないな」
「そうか、しょうがねえな。ま、世の中ずっと不況だしな。手配師の仕事だってめっきり減ったしよ。でも、いいじゃねえかよ、仲間がいて寝ぐらがあって、酒まであるんだからよ」
「いや、そうゆうことじゃないんだよ。そうゆうことじゃないんだ」
「なにがよ?」
「もういいよ。忘れてくれ」
「なんかおめえ、ひっかかる言い方じゃねえかよ」
「うん、すまん。最近ちょっと疲れちまった」
「この二日はおれだって正直まいってるよ」
「いや、あれは関係ないんだ。なんだろうな、最近妙にイラついて、我慢するのがしんどいんだよ」
「おれには難しいことはよくわからねえけどよ、ま、しんどいときもあらあよ。そんなときはよ、酒かっくらってバカやってると楽になるぜ」
「おまえはいいな」
「おっ、おめえ、おれのことバカにしてるな?」
「違うよ、純粋にそう思ってるんだ
」 「おれだってよ、悩みのひとつやふたつはあるんだよ。でもよ、悩んだってどうしようもねえだろ? おれたちは所詮、犬みたいなもんなんだからよ」
「犬、か」
「そう、それも飼い犬じゃねえ。世間から嫌われてる野良の集団だよ」
 シンは、犬かともう一度小さくつぶやいた。
「おれはよ、おまえがこの世界を抜けたいんなら応援するぜ。おれたちゃ家族みてえなもんだろう?」
 この世界を抜ける───抜けられないだろうとシンは思う。彼はこの街が巨大な生き物のようだと思うことがある。街のそこかしこに触手を伸ばし、からめとった人間の精気を吸って生きている。そんな化け物に寄生し、分け与えられた養分で丸々と肥えている者もいる。だが、おれたちは搾取される側の人間だ。野良犬というのに抗うことなく、飼いならされた犬の従順さで自ら血を絞り出している……。
「おやじが捜してたぜ。シンはどこに行ったって。なんか用事があったんじゃねえか?」
 シンは、そう、とだけ返す。
「あいつらの喜ぶ顔が目に浮かぶぜ。だいたいあいつら、いつもおれのことをアル中だって言ってるけどよ、でもおれに言わせりゃあいつらだって立派な───」
 突然ザキが言葉を切り足を止めた。ザキの顔に目をやり、シンもすぐに足を止めた。ザキの顔はこわばり、赤茶けた顔がわずかに蒼ざめて見えた。かわいてめくれあがった唇を薄く開けたまま、目はどこか遠くにある一点を見据えている。シンはザキの視線をなぞった。視線の行き着くところには、あまりにも見慣れすぎた宵の光景、地下広場の雑踏があるだけで、何も見つけることはできなかった。しかし、ザキが何かを目にしたことは疑いようがなかった。危険な匂いのする何かを。
「シンよ」
 シンはザキに顔を向ける。ザキはかたい唾を呑む。
「ひでえのは昨日の晩で終わりかな?」
 言ってる意味がシンにはよくわからなかった。
「もっとひどいことが起きるかって聞いてるのよ」
「そんなの知るわけないだろう」
「だよな、だよな」
 ザキは腹から搾り出すように笑いを撒いた。
「さあ、帰ろうぜ。家はなくとも帰る場所があるってのはいいもんだねえ、へっ、へっ!」

  右の肩を大きく上下させ、ザキはすたすたとシンの先を歩きはじめた。シンは小さく鼻を鳴らし、ザキの背中を追った。厭なあと味が膿みかけた口内炎のように口に残っていた。
ザキの背中を見て歩いているときだった。ふいにシンは立ち止まった。目の前に雪のようなものがふわふわと浮かんでいた。それはシンの目の高さで左右に揺れ、急に下降したかと思えばふわりと頭上に舞い上がった。シンは無意識に人差し指の腹を上に向け、そっと手を伸ばした。すると、それは指の上に舞い降りた。小さな鳥の羽だった。どんな色をも拒んだ白さで、産毛のようにやわらかい。目を閉じると指の上にあることもわからないだろう。それほどに重みがなかった。シンはほんの束の間眺めてから、ふっと軽く指先に息を吹きかけた。羽は再び命を取り戻したかのように、飄然と、自由な軌跡を描いて舞い立った。そして、穏やかな波に浮かぶ木の葉のように揺れながら、ゆっくりとシンから離れていった。それは足早に歩く人たちの頭上すれすれのところを泳いでいったが、気づく人は誰ひとりいなかった。

6
image3

奴がいた。奴はケンの隣で炬燵に入ってテレビを見ている。一切の音はなく、ブラウン管のほの白い灯がふたりの顔を薄く照らしている。ひどく暑かった。チビはケンに向かって、何か飲み物をくれと言う。ケンはその言葉にまったく反応しない。奴がこちらを向いた。白目の部分は芥子色に黄ばんで、瞳が赤く光っていた。奴は表情を変えず、ねずみ色のジャンパーの懐に手をやる。その手に包丁があった。丹念に研がれた大きな刃が蛍光灯の光を受けチビの目を射る。すぐさま「逃げろ!」とケンに向かって叫ぶ。ケンはテレビに視線を向けたまま動こうともしない。奴は包丁を片手にチビから目を逸らすことなく、炬燵の上にある菓子をつまんで口に運ぶ。口を左右にずらすようにしてゆっくりと咀嚼する。溶けかかった石灰石のような歯に菓子が白くこびりついているのが見える。チビは胃がひっくりかえったような吐き気をもよおす。焼けるような躰に寒気が走る。「ケン、逃げろ!」悲鳴に似た叫びが部屋に響く。それでもケンはこちらを見ようともしない。ケンの横顔を見て、チビは咄嗟に目を背ける。白い顔に耳だけが黒々として、醜く潰れていた。女が襖を背にして立っていた。下着姿で、ブラジャーの片方から豊かな乳房がはみ出ている。女はゆっくりと歩き、男から包丁を受け取ると、おもむろにチビの下腹部の上に腰を下ろす。妖しい笑みを浮かべ、三白眼の小さな瞳が異様な光を放っている。女は包丁の柄で、コツン、チビの額をこづいた。薄く笑いながら二度、三度と。そのリズムに、チビは昂ぶりを感じ、女の乳房に手を伸ばす。腐った肉の感触が手に染み入る。女は声をあげて笑う。奴がしわがれた笑い声を重ねる。女の腕の動きが徐々に大きくなる。チビは額から真っ赤な血を流しながら、下半身のうずきに耐えている。女の白い腕がまっすぐ垂直に伸びて動きが止まる。指先だけで器用にくるりと包丁を逆手に握る。頂で止まっていた刃の切っ先が動いた。チビは眉間に向かって振り下ろされる刃の一点を見つめたままのぼりつめる。頭のなかで何かが白くはじけた。
 遠くでケンの声が聞こえる……。
「チビ! チビ!」
 蛍光灯の灯が目を射た。チビは手をかざし、指の隙間にケンの顔を見た。ケンがまっすぐ見下ろしている。チビは咄嗟にジーンズのなかに手を入れようとしてやめた。確かめずとも明らかだった。ふと女の匂いがした。枯れた女の薄い匂い。チビの後ろで襖が開いた。

 妻の葬儀の後のことだ。妻の躰が白い骨と灰になって眼前に現れたあのとき。チビはいまもはっきりと憶えている。義母の憎しみに満ちたあの目。
「あんたのせいだよ、この骨に……この娘にさわらないで」
 一歳を過ぎたばかりのケンは驚いて、義母の腕のなかで黄色い液体をおむつからいきおいよく溢れさせた。義母の喪服についた汚れを落とそうと、親戚たちが慌てふためいた。ケンは大声で泣いていた。ケンの幼い従兄弟たちが「ウンチ! ウンチ!」と連呼し、わめきたてた。騒然とした光景のなか、義母の憎しみの目だけはじっと動かず、まっすぐにチビを見据えていた。
 あのときの義母の目を思い出さずにはいられなかった。のらりくらりのチビの対応に、義母は怒りを爆発させた。もう二度とあんたの顔を見たくない、と義母は言った。この子にも会ってほしくない、と。チビは畳に額をこすりつけ許しを請うた。そして、仕事が見つかるまでは絶対に会いに来ないと義母に約束した。

 上がり框に座ってブーツの紐を結ぶチビのすぐ後ろにケンが立っていた。
「もう来ないんだよね」
 ケンの言葉にチビは振り向いた。父親の笑みで顔を寄せるように手で合図し、ケンの耳元に囁きかけた。
「心配するなよ、すぐに来るよ」
 ケンが丸い目をなお丸くさせる。
「だってチビ、仕事してたことないじゃん」
「仕事してようがしてまいが、おれはおまえの父親なんだから」
「無茶苦茶だよ」
「うるさいな、仕事仕事って。仕事がなんだってんだよ。くだらない仕事だったら、やらないほうがいいんだよ」
「じゃあ、いつ来るの?」
「いつなんて約束できないよ。おれは約束ができる人間じゃないってことぐらい、おまえにもわかってるだろう?」
 膨らんだケンの頬がしぼんだように見えた。
「大丈夫だよ、近いうちにまた来るって」
 言いながら手を伸ばし、幼い息子の頭を乱暴に撫でた。
 ドアを開けると夜の風が舞い込んだ。チビは玄関先で振り向き、ケンに部屋に入れと合図した。ケンは二度大きく首を縦に振った。そのときふと、なぜケンが起こさなかったかが頭をかすめた。が、風に煽られ、ドアが閉まった。チビは咄嗟にノブに手を伸ばそうとして、一瞬ためらい、その手を戻した。
 通りのあちこちの、手を伸ばせば届きそうなところに家の灯があった。頬をなぶる氷のような風とはあまりに対照的な、夕食刻の、温かな灯だった。

<一月二十五日 朝刊記事>

 東京都は二十四日午前、新宿区のJR新宿駅西口と都庁など高層ビル街を結ぶ地下道で「動く歩道」の建設に着手した。これにともない、地下道の路上生活者のダンボール小屋の撤去作業を行った。この動きに対し、建設に強く反発してきた路上生活者や支援メンバーら約二百人が地下道にバリケードを設けて座り込むなど激しく抵抗。警備の警視庁機動隊との間で小競り合いになり、四人が公務執行妨害などの現行犯で逮捕された。午前六時に始まった撤去作業は十時すぎに終了。地下道部分のほぼすべてのダンボール小屋は撤去され、その後本格的な工事が始まった。
 都によると地下道付近で生活していた路上生活者は約二百名。このうち三十七名が、都が港区芝浦に用意した臨時保護施設への入所を希望し、バスで移動した。残りの約百六十名の路上生活者たちは新宿駅西口地下広場に移動し、居すわる構えを見せている。一方、支援メンバーらは同じく新宿駅西口地下広場にあるインフォメーションセンター近くに仮避難所を設け、抗議活動を続けている。

(次回より「第二章 新宿駅西口地下広場」がスタートします)

Back Number