Krash Novel

アンダーグラウンド

第一章 1996年1月25日午後
3
image1

新宿・紀伊国屋書店の前。横断歩道の信号を待つ間、シンはアノラックのポケットからタバコを取り出し火をつけた。疲れからか、自分のおろかさへの失望からか、躰が重くだるい。心なしか街の色が薄く見える。正面にある人ごみに人いきれはなく、皆一様に顔がのっぺりとしている。
 隙間なく流れてくる人ごみの間を縫うようにして甲州街道方面に向かった。古い造りのビヤホールの前を過ぎ、ゲームセンターの軒先にある灰皿にタバコを捨てた。若い男女が店の面にほど近いところでゲームに興じている。膝まである革のブーツをはいた女が男の肩をたたきながら叫ぶ。
「もうちょっと右、右! そこそこそこ!」
 ゲームセンターの角を左に曲がり、二十メートルほど進むと、右手に小さな映画館がある。館の名前を記した看板はペンキが剥げ落ちみすぼらしい。小さな水色のタイルをはめ込んだ壁に浅いガラスの箱が埋め込まれ、次回上映予定の映画のポスターとスチール写真が貼られている。二本とも二十年ほど前の東映のヤクザ映画だった。シンはしばらく見るでもなく眺めてから正面の入り口に向かった。
 入り口の横に切符売り場がある。透明なプラスチックの小窓の向こう、女の手が見えた。上映スケジュールを示したボードにさえぎられ、女の顔は見えない。シンが小窓に近づくと、女の手が机の下にさっと引っ込められた。
「いいかな?」
 数秒の沈黙があった。
「いいよ」
 女が言った。
 シンは正面玄関に向かった。入ってすぐの右手に据えられた低い台の向こうに初老の女が立っていた。シンを見るなり、女が叫ぶように言った。
「何しに来たの、このろくでなしが!」
 すぐに女の背後から声がした。
「おばさん、やめてよ!」
 初老の女は振り向いて小さく舌打ちした。
「もう、ほんとにいい加減にしなよ。お母さんになんて言やいいんだよ」
「いいの、もうかまわないで」
 女は言いながらシンに近づき、シンの右手をとった。シンは女に導かれるようにして、場内への扉に向かった。一度振り向いて入り口の方に目をやった。初老の女は背を丸め、弱々しい足どりで切符売り場の方へ向かって歩いていた。
 スクリーンをバックに客の頭が見えた。客は全部で五、六人ほど。一番前の中央の席では、男が絶えず音をたててスナック菓子を口に放り込んでいる。三列目の端に座った男は鼾をかいて眠っている。一番後ろの端の席ではカップルがお互いの顔をこすりつけるようして唇をむさぼりあっていた。
 ふたりはそこがお決まりの場所であるかのように、後ろから三列目のほぼ中央の席に向かった。シンはシートに腰を下ろしながらかすれた声をもらした。スチールのスプリングの感触がじかに尻に伝わるような安っぽいシートだった。だが、彼にはその安っぽささえもこのうえなく快適に思えた。  スクリーンに目をやると、みすぼらしい恰好をした少年がアコーディオンでワルツを奏でていた。少年の目の前で老いた男女が踊っている。シンはその曲にしばらく耳を傾けた。哀しげだが懐かしくもあった。メロディ自体がそうなのか、それともアコーディオンの音色がそう感じさせるのか彼にはわからない。ふいに、これはジプシーの音楽だろうと思う。表で見た映画のタイトルは『ジプシーのとき』とあった。
 ふたりはしばらく言葉を交わさず、スクリーンに目を向けていた。はじめに口を開いたのは女だった。アコーディオンの演奏が終わり、やや時間をおいて、大丈夫なの、と小さな声で訊いた。女の目はまっすぐスクリーンに向けられている。スクリーンの灯に、長い髪の縁だけが黄金色のやわらかな光を帯びている。
「昨日、ニュースで見たよ。シンちゃん、大丈夫なの?」
 スクリーンに目をやったまま、シンは大丈夫だと言った。
「ビックリした。まさか突然───」
「突然じゃない。前からわかってたんだよ」
「わたし、見ててこわかった」
 最前列に座っていた男が席を立った。男は段の浅い通路の階段につまづき、手にもっていた菓子を床に撒いた。
「今日まで何してたの?」
 スクリーンから女の顔に目を転じる。女は肩をすくめるようにしてシンを見つめていた。
「とくに何もしてないよ。適当に飯食って、酒飲んで寝てた」
「仕事を探してたんじゃないの?」
 シンは小さく首を横に振った。
「言ってたじゃない、仕事を探すんだって」
 シンは応えない。耐えるような表情で前のシートの背に目をやっている。
「ごめんなさい、余計なお世話ね」
「いや……仕事はないんだよ」
「シンちゃん、探したの?」
「おれを雇ってくれるような会社はないんだ」
 女は一度口を開こうとしてつぐんだように見えた。最後列の席で男の低くこもった声が聞こえた。ついで女の押し殺したような笑い声。
「わたし、甲府に帰ろうかなって思ってるの」
 女はしばらくシンからの言葉を待ったが、シンはかたく口を閉じたままだった。
「お母さんがね、兄とうまくいってないみたいなの。最近、電話で話すたびにわたしに帰ってきてって言うの。シンちゃん、一緒に帰らない?」
「……甲府」
「東京にいて何があるっていうのよ? それにどこに行ったってここより悪くはならないよ。仕事だって、兄にどこか紹介してもらえると思うし」
 シンは目線を下に落とした。薄いため息がもれた。
「ごめんなさい、疲れてるときに」
「いや、いいんだよ」
「いまの忘れて。もういいの」
「今晩、アパートに行くよ」
 そう言うなり、シンは立ち上がった。
「帰るの?」
「ああ、邪魔してごめん」
 シンはその場を離れようとして、女がアノラックの裾を小さく掴んでいるのに気づいた。女は最初から映画を観ていたかのような見入った表情でスクリーンに顔を向けている。シンはもう一度シートに腰を下ろした。
「映画を観に来たのかと思った」
 シンは女からスクリーンに目を転じ、いいやと答えた。
「そう。じゃあなんで?」
「一時間ぐらい寝ようと思って」
「最近、寝てないの?」
「ああ」
「じゃあ一時間したら起こしてあげる」
 シンはひとつ大きく息を吸って、シートに躰を沈め目を閉じた。染みのように躰を侵していた疲れが、吐く息とともに放出されていくような、そんな気がした。女の指が髪に触れる。やわらかな指だった。
「シンちゃん、寒くない?」
「ああ、寒くないよ」
 女の腕がシンの肩に回された。女に肩を抱かれていることに、シンは妙な感覚をおぼえたが悪い気はしなかった。シンは女の肩にもたれるようにした。ウールのカーディガンの長い毛足が鼻に触れくすぐったかった。
 哀しげな音楽が流れていた。さっきのアコーディオンの演奏とは違って、いくつもの音を重ねた厚みのある音楽だった。子供たちが曲に合わせ歌っている。その声はあまりに無垢で、痛々しかった。シンは横目でスクリーンを見た。川があった。靄のたちこめた流れの穏やかな川。水面のあちこちで松明が焚かれ、その間を縫うようにして小さな舟がゆっくりと流れていく。小舟のなかであのアコーディオンを弾いていた少年が横になっている。少年は同じ年頃の少女と横になったまま向かい合い、ふたりは裸だった。シンは肌で感じた。少年の黒々とした髪から、少女のやわらかな胸の膨らみから、お互いを見やるふたりの目から、しがらみから解放された悦びが、愛情だけを信じて生きる悦びが横溢している。
 シンはもう一度目を閉じた。眠りはすぐそこまできていた。女の温かみに包まれ、次第に薄れゆく意識のなかで自分の躰が少しずつ重力から解放されていくような気がした。細胞まで沈殿した疲れも、骨を侵すような苦痛もなかった。ただふわふわと浮き上がるその躰は、女を離れ、映画館の屋根を通り抜け、一月のぶ厚い雲まで昇りつめ、たっぷりと膨らんだかわいた綿のなかでたゆたう。

 雨の音がする。雨はスクリーンのなかで激しく地面を打っていた。シンはいくつもの夢を重ねて見ていたが、どんな夢だったのかひとつも思い出せなかった。

4
image2

京浜急行蒲田駅で電車を降りる。JRの蒲田駅とは違って、この駅の周辺はいつもうすら寒い感じがした。街の規模が小さいばかりではない。街自体がどこか寂しい、取り残されたような雰囲気をまとっている。駅周辺にいる人間も同じように見える。街が寂しいから人がそう見えるのか、人が寂しいから街がそう見えるのか。そんなことを考えながら、チビは人通りのまばらな商店街を抜けていく。
 商店街から五分ほど西糀谷方面に歩き、両側に小さな古い家やアパートが隙間なく建ち並ぶ細い通りに入った。その通り沿いの一軒の薄汚れたモルタルのアパートの前で足を止めると、ウォークマンのイヤホンをはずし、途中空き地で拾った小石をジーンズのポケットから取り出して二階の窓のひとつに投げつけた。カツンと音がして、小石はアパートの外壁とブロック塀との隙間に落ちた。なかなかは何の反応もない。もう一度小石を取り出し、窓に向かって投げる。反応はない。チビはしばらく窓を眺めてから三つめの、最後の小石を窓にぶつけた。小石のあたる音が聞こえたかと思うと、今度はすぐにいきおいよく窓が開いた。なかから顔を出したのは五、六歳のぽっちゃりとした色白の男の子。窓からようやく外にのぞかせたその顔は、幼いながらも険しい表情を装っている。通りに立っているチビを見つけると、子供の顔はさらに険しくなった。
「あ、チビ!」
 かん高い声が通りに響きわたる。下から見上げるチビは満面の笑みを浮かべている。
「よお、ひさしぶり」
彼の黒い瞳は不安定に揺れることなく、まっすぐ子供をとらえている。
「ばあちゃん、そこにいる?」
 子供の顔が大きく左右に振れる。
「そう、じゃあいまから上がってくから、鍵開けといてよ」
 言い終わらないうちに、チビは二階に通じる鉄の階段を大きな音を響かせ上がって行った。
 玄関の表は隣家とくっつくほどに隣接しており、昼間というのに薄暗い。ドアの横に置かれた二層式の洗濯機は、雨の日に捨てられた子犬のようにみすぼらしく見えた。
 ドアを開けると懐かしい匂いがした。ケンの匂いだとチビは思う。三カ月ぶりだろうか、前にここに来たのはたしか十月だった。
 上がり框に座ってブーツの紐を解こうとしていたそのとき、頭になにかがいきおいよくぶつかった。とっさに頭をおさえて振り返る。目の前にケンが掃除機の柄をもって仁王立ちの姿勢で立っていた。
「痛いよ、何すんだよ!」
 ケンは薄い眉を吊り上げチビの顔をにらみつけると、掃除機の柄をもったまま部屋の奥へとバタバタと走っていく。チビはケンの後姿を目で追いながら、デザートブーツを無造作に脱ぎ捨てた。
 入ってすぐの台所を通り抜け、畳敷きの居間に足を進める。部屋はきれいに整頓されていた。部屋の隅に赤い小さなテレビがあり、その上にビニールでコーティングされた飾り餅があった。居間の隣、襖の奥をのぞき見る。その部屋は四畳半ほどの広さで、たぶん寝室に使われているのだろう、黒っぽい箪笥があるだけでほかには何もない。その部屋の隅、チビが小石をぶつけた窓を背にしてケンが立っていた。
「何しに来たんだよ、チビ!」
 チビはまっすぐケンを見て言う。
「あのさ、おれのことチビって呼ぶのはいいけどさ、そんな口のききかたはよくないと思うんだ、仮にも父親なわけだし。ほら、ちょっとこっち来て話でもしようよ」
 そう言ってチビは居間の炬燵に脚をもぐりこませた。ケンはそこから一歩も動かず、チビをにらみつけている。チビは炬燵に入ったまま肉の厚い頬をほころばせケンを見つめた。しばらく無言のときが過ぎた。チビが絶えかねて腰をあげた。台所で冷蔵庫の扉を開け、瓶詰めのキムチを手にとった。冷蔵庫を閉めると今度は流しの下の収納を物色し、料理用の日本酒を取り出し、流しにあった空のコップを指でつまんで居間に戻った。さっきまでチビがいた炬燵の真向かいの場所にケンが座っていた。両手を炬燵のなかに入れ、やわらかい顎をテーブルの上にちょこんとのせている。目はチビに似て大きく、まんまるの瞳は濡れたような艶がある。チビはケンの顔に目をやったまま、キムチの瓶と料理酒を両手にもってさっきと同じ位置に腰を下ろした。
「ケン、幼稚園行ってる?」
 ケンは大きく顔を左右に振った。
「なんで?」
「つまんないんだもん」
「へへ、そうだよな、幼稚園なんてつまんないよな。行きたくなきゃ行かなくていいよ」
「父親がそんなこと言うかな」
「幼稚園なんておれも行ってないんだから。でも、さすがにおれも小学校は行ったよ。ケンも今年は小学校だよね?」
「行きたくないな」
「そうだよな、行きたくないよな」
「行かないでいい?」
「そうだな、どうだろう、でも学校に行かなきゃ友達だってできないよ」
「友達なんていらない。みんなバカばっかりだから」
「そうだよな、疲れるんだよね、バカの相手するのって。ケンはほんと賢いよ。おれみたいな親をもったことに感謝しなよ。おれがもしも学校の先生だったりさ、お母さんが生きてて三時のおやつを毎日作ってたりしてごらんよ。休みにグアムだのハワイだの行って、クリスマスに家族みんなでツリーに飾りつけなんかしててごらんよ。三年もすれば立派な阿呆の仲間入りだよ。ケンはある意味恵まれてるわけさ。だってみんなほんとにやってるんだよ、グアムもハワイもクリスマスツリーも。おまけに七面鳥もどきで鶏の丸焼きなんか食べてたりして───」
「チビ、何言ってんの? 」
「は?」
「なんの話してるの?」
「だから、ほら、あれだよ。クリスマスツリーなんか飾ってもろくなもんじゃないって話をさ──」
 突然、ケンがかん高い声をあげて笑った。チビの顔に赤みがさし、丸い頬がさらに丸く膨らんだ。バカだ、バカだ、ケンが笑いながら繰り返した。チビは横目でちらちらとケンを見るようにして、酒をコップになみなみと注いだ。ケンが笑いながら、コップを手にしたチビの腕をたたく。炬燵布団に酒がこぼれ、ケンがさらにかん高い笑い声を響かせた。
 酔いが回ってきたのか、チビは少し眠気を感じていた。さすがに疲れていた。昨日も一昨日もほとんど眠らず、朝まで神経を張り詰めていた。そのせいか、頭が重くしびれたような感覚がある。目を閉じると昨日の光景がいまも鮮明に蘇る。その光景に様々な音が重なる。地面からわきおこるような男たちの低い怒号、壁をたたく鉄パイプの音。消火器が白煙を吹き上げる。機動隊の盾にガラス瓶が投げつけられる。鍋が投げつけられる。爆竹の音、卵の柔らかな殻がはじける音───。チビの心臓は激しく鼓動していた。
 ふとケンに目をやる。ケンは炬燵のテーブルの上に肘をついて、両の人差し指で鼻筋をなぞっていた。新しい癖のようだった。チビはその様子をしばらく眺め、胸の鼓動が少しずつ落ち着いていくのを感じた。
「ぼくの鼻、高くなんないかな」
 唇を尖らせ、不満げな顔でケンが言う。
「ぼくの鼻ってチビの鼻みたくなるんだよね? 厚ぼったくて、ぼく嫌いだな。ねえ、お母さんの鼻ってどんなだったの?」
 ケンのちょうど後ろ、粗末なサイドボードの上に飾られたケンの母親の写真が目に入った。それは彼女が二十歳の頃に撮ったものだった。写真のなかで笑っている彼女の顔は、そのときたしかに自分に向けられていた。遠い昔のような気がした。たっぷりと陽を浴びた彼女の笑顔、指からこぼれていくようなしなやかな細い髪、耳もとで囁くかすれた声、薄い布団のなかで交わした言葉、やわらかな指の感触、肌のぬくもり。それらをチビはときどき思い出すことがある。が、どこか輪郭はぼやけ、リアリティは色を失いはじめている。しかし、匂い。彼女の匂いの記憶だけは薄れることはない。
「ねえ、聞いてるの? どんな鼻だった?」
 チビは幼い息子の目をまっすぐに見つめる。
「お母さんはさ、すごく綺麗な人だったんだよ」
「知ってるよ、おばあちゃんもよく言ってるし」
「いや、そんなもんじゃないんだよ。ケンが写真で見るよりも想像してるよりも、もっと綺麗だったんだよ」
 ケンは小さく首をかしげ、しかし、目だけは感動の色をかすかにのぞかせていた。

image3

窓の外にはすでに宵が、冬の闇がおしせまっていた。ケンは炬燵布団を肩までかぶり、ときどきちらと恥ずかしげな視線をチビに向けている。チビはそんなケンを見ながら、満足げな表情で酒に口をつけていた。
「ばあちゃん、今日何時ごろ帰ってくる?」
「五時過ぎ」
「そう、じゃあ三十分ぐらい寝かせてもらおうかな」
「お父さんたちのこと、テレビのニュースで見たよ。おばあちゃんに頼んで、ここで寝させてもらえば?」
「そんなの頼めるわけないだろう? ばあちゃんには、もうここには来ないって約束してるんだから。もしかしたらおまえ、ここに来てること言ったんじゃないだろうね?」
 ケンは小さく首を横に振る。その顔はどこか哀しげだった。
「ごめんよ、ケン。寝る場所はあるんだ。眠れないだけで」
「大丈夫なの?」
「ああ、心配しなくていいよ」
「じゃあちょっと眠れば? 起こしてあげるよ」
「ケンも少し寝る?」
「ちょっとだけ寝ようかな」
「一緒に寝ようよ、ちょっとだけ」
 チビが炬燵布団を持ち上げるようにして、ここにおいでと合図する。ケンの顔が嬉しさを隠しきれない子供らしい笑顔にとってかわり、すぐにチビの隣に滑り込んだ。
 ふたりはしばらく仰向けになって天井を眺めていた。表の通りで小さな犬が鳴きつづけている。チビは横目でケンの顔を見て、もう一度天井に視線を戻した。
「あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど」
 ケンは何も言わない。ぱっちりと目を開けたまま、ただ天井を眺めている。
「たいしたことじゃないって」
「じゃあ一応聞いてみる」
「二千円ほど貸してくれないかな?」
 ケンがごろりと寝返りをうってチビに背を向けた。
「千円でもいいんだけどね」
「いつ? いつ返してくれるの?」
「出世払いということで、どう?」
「出世払いってなに?」
「お父さんが偉い人になったら、そんとき返すってこと」
 ケンのため息が聞こえた。チビは悟られないほどに小さなため息をついた。だしぬけにケンが立ち上がり、奥の寝室に行った。箪笥のひきだしを開け閉めする音が聞こえたかと思うと、千円札が一枚、炬燵のテーブルの端をかすめてチビの腹の上に落ちた。チビは目だけで腹の上を見て、一瞬ためらってから千円札を掴んでジーンズのポケットにねじ込んだ。
 やや時間をおいてケンがもぞもぞと炬燵にもぐり込む。隣で父親の鼾が聞こえはじめるまでに二分とかからなかった。幼い子供はちらと隣を見てから父親の向かいに移り、おもむろにテレビのスイッチをつけた。
 外でゆっくりと階段を一段ずつのぼってくる足音がした。ケンが気づいてとっさに玄関に向かう。チビの鼾がやんだ。が、一度寝返りをうって、また鼾をかきはじめた。

Back Number