Krash Novel

アンダーグラウンド

第一章 1996年1月25日午後
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ドアを開けると、体臭と黴の混ざり合った匂いがつんと鼻をついた。視界にあるものは何も動かない。何ら気配がない。しんとした静けさがすっぽりと部屋を覆い、むきだしの蛍光灯のかすかな唸りが羽虫の羽音のように低く響いている。
 ほの暗い廊下のつきあたりの部屋。シンはその部屋の中へと足を進めた。入ってすぐの右手にスチール製のロッカーが並んでいる。丈は彼の身長よりも少しだけ高い。部屋の奥には細長い折り畳みのテーブルがあり、競馬新聞や夕刊紙、マンガ本、吸殻が山のようになったアルミの灰皿、コーヒーの空き缶などで埋め尽くされている。テーブルと壁との間に罫線を書き込んだ白板がある。従業員のスケジュールだろう。十人ほどの名前が並び、めいめいの欄に作業現場が書き込まれている。
 廊下でぺたぺたとサンダルの音がした。まっすぐこの部屋に近づいてくる。電話に出た男だろうとシンは思う。ノブを回す音がして男が入ってきた。太った男だった。白いシャツの上に着たウールのベストが、大きく突き出た丸い腹をかろうじて包み込んでいる。男はシンの顔を見ることなく、テーブルの奥へと回りこんでシンと向かい合った。やにわに眼鏡をはずしハンカチでせわしなく額の汗を拭うと、どうしようもない奴らだなと吐き捨てるようにつぶやいて、テーブルの上を片づけはじめた。シンは男に目をやりながら、幼い頃に通っていた保育園を思い出していた。園舎の隣にあった朽ちかけた寺。あの寺の住職がこの男と同じように腹をたっぷりと膨らませて死んでいた。真っ白な布団の上に仰向けに横たわった白装束の住職の死体。お堂の障子は開け放たれ、その向こうで夏の陽が山々の濃い緑に降り注いでいた。シンの耳元で若い保母が囁く。───あのお腹にはね、大きな瓜が入ってるのよ。
「ええっと、ナカシマさんでいいのかな?」
 男の前には折り目のついた履歴書があった。
「まあ、座ってくださいよ。あのね、これ、ふりがなふってないんだけど」
「ナカシマ・シンです」
 言いながらシンはパイプ椅子に腰を下ろした。
「高杉晋作の<晋>か、こりゃまた立派な名前だね」
 男はタールのような肌にまとわりつく視線をシンに向ける。シンは応えることなく、男の薄い濡れた唇からテーブルの上に目を転じる。
「住所は北新宿ね。新宿だったら通うのも近いか。それとも丸の内線を使って赤坂見附で銀座線に乗り換えた方が早いのかな。あそこって乗り換えがホームの反対側だったよね? ま、そんなことはあなたの好きにしていいんだけどさ」
「じゃあ、雇ってもらえるんですか?」
「そう慌てなさんな。もうちょっと聞かせてもらわないとね。こっちも仕事だから、あとあとトラブルとか避けたいわけよ」
「トラブルというと?」
「たいしたトラブルってのはほとんどないんだけど、借金取りからしつこく電話がかかってきたり、現場で傷害事件を起こしたり、結構あるんだよ。まあ、そうゆう奴は常習犯だから、前もって聞いておきたいんだよね。ところで、ええっと、ナカシマさん、あなたもしかしてその髪染めてるの?」
 シンは素っ気なく、いいえと答えた。
「いやね、おかたい現場だと上の人からあとで文句言われたりするんだよ。変な奴まわすなって。でも、それぐらいの頭だったら大丈夫か」
 廊下で女の笑い声がした。ついでドアが閉まる音がして、笑い声はぷっつり止んだ。
「ええっと……ナカシマさんだ。ここんとこ書いてないけど、車の免許はもってる?」
 小さくうなずき、一応はと答える。
「そう、それならいいんだけど、免許もってないと車の誘導がなかなかわからなくってね。ところで、あなた車は持ってるの?」
「いいえ」
「そう、もってないんだ。まあ、東京じゃ車なんていらないね。地下鉄がもう蜘蛛の巣だもの。これでまた新しい線ができるっていうし、東京の地下なんか穴ぼこだらけだよ。大きな地震でも来た日にはもう終わりだね、この世の終わり」
 シンは神経がささくれだっていくのを感じていた。男のもの言い、油のような視線、平板な小さな目、時折唇をなめる細い舌、粒の小さな黄ばんだ歯、ふいごの穴から洩れるような鼻息、この黴臭い暗鬱な部屋の空気。まとわりつくすべてのものを断ち切るように、返答を促す言葉がついて出た。
「そう慌てなさんなって。そうね、大きな問題はないんだけどね、いまのところは」
 いまのところはね、といたぶるように男は繰り返した。
「なにか問題が───」
「あれがね、あれがあるかどうか聞きたいんだけどね。こちらもまずいわけだよ、会社だから。監督責任というものがあるから。失礼なこと言ったらごめんね」
「なんのことですか?」
「だからさ、わかるでしょ? あれだよ、あれ」
 頭のなかが薄く白んでいく。
「……はっきり言ってください」
 男は机の上で両手を組み、思案するようにうつむいて言った。何もかもが芝居がかっていた。
「まあ、ないとは思うんだけど、前科だよ。あなた、これまで事件を起こしたことは?」
 男に視線を向けるのさえ萎えた気がした。
「……前科があったら常習犯ってわけですか?」
 シンの声はかすかに震えていた。
「いや、そうゆうわけじゃないけど、仕事が基本的に警備だから、会社にとってまずいわけだよ」
「前科は、あります。でも、もう随分前のことです」
 男はシンから目を逸らすと、履歴書の上に冷めた目を泳がせ、人差し指で履歴書をとんとんと軽くたたいた。
「そう、やっぱりね」
 シンはひとつ大きく息を吸った。息を吸いながら、たいしたことじゃないと心のなかでつぶやく。いまにはじまったことではない。いつも指先にはなにも触れない。手を伸ばしただけでそこにあるものは音をたてて崩れていく。しかし、失ったわけじゃない。そこには最初からなにもなかったのだ。
 なにも言わず、シンは目の前の男に視線を向けたまますっと席を立った。同時に見上げた男の目に、かすかに恐怖が見てとれた。だが、シンには脅すつもりは毛頭なかった。これよりひどいことは何度も経験している。それに、三十も過ぎたいまとなっては、礼の一言も言ってその場を去るだけの理性は身につけている。少なくとも彼はそう思っていた。
 ドアのノブに手をかけたかと思うと、ゆっくりとした動作で振り返った。そして、腰をかがめて左手のロッカーのひとつに右の耳を近づけた。正面に男の顔が見える。男はわけがわからないという顔で薄く口を開けている。
「これ、このなか、なんかいますよ」
 飄々とした調子を装ってシンが言った。
「え、なんかって?」
「ねずみか……子猫かもしれない」
「そんなはずないよ」
「いや、ほんとですよ」
 やれやれと言わんばかりに小さく舌打ちし、男がロッカーの方に近づいてくる。サンダルがリノリウムの床に擦れ、あの安っぽい音をたてた。 「あいつら、ろくな奴らじゃないからな」
 シンの前で立ち止まると、ロッカーに手を伸ばした。ロッカーには鍵がかかっていた。
「聞こえるでしょう?」
「あん?」
「ほら、下の方」
 口の端をつり上げ、男がロッカーに耳を近づける。
「もっと下ですよ」
 男が膝を折ってロッカーに耳をつけた瞬間だった。男の背後に回ったシンが耳すれすれのところでロッカーの扉を思い切り蹴りつけた。男が腰から床に落ちた。鈍い音がした。小さな太った手で右の耳をおさえ、だらしなく開けた口からは空気の漏れる音が聞こえる。ずり下がった眼鏡の奥で目は醜くつりあがり、顔は蒼白で歪んでいた。
 シンは腰をかがめ、男に顔を近づけた。
「こんなことするつもりはなかった。でも、あんたは許してくれるだろうね」
 かすれた悲鳴を漏らし、男が虫のように尻餅をついたまま後ずさる。胴着のボタンがひとつはじけるように飛んで、シンの足にあたって転がった。シンはボタンの転がる様を無言で眺めてから、男を見ようともせず踵を返し部屋をあとにした。ほの暗い廊下を通り、下りの階段に足をかけようとして、廊下の奥であの男の声がした。が、シンにはなにを言っているのかわからなかった。

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暖房のききすぎたマイクロバスのなかは、むせかえるような臭気が充満していた。ありとあらゆるヒトの匂いが混ざりあい、密度を増して重く漂っている。二十人ほどの乗客はその匂いをそ知らぬ顔で呼吸している。彼らは呼吸する術を知っている。運転手とスーツを着た男だけが時折遠慮げに窓を開け、小さな車に乗せられた犬のように顔を窓の外につき出して外気を求めていた。
「寒いよ! 閉めろ、バカヤロウ!」
 バスのなかほどに座った男が容赦なく罵声を浴びせる。スーツを着た男のからだがびくんと波打つように動いて、慌てた仕種で窓を閉める。
 誰もしゃべらない。低く垂れ込めた雲をぼんやり眺めていたり、陰影の薄い灰色の街に視線を泳がせていたり、眠っている者もいれば、眠ったふりをしている者もいる。前のシートの背に隠れるようにしてコップ酒を飲んでいる者もいる。男たちの顔は皆一様に沈鬱な色に染められていた。唯一、例外がひとり。一番後ろに座った若い男だけが、いたずらっ子のような漆黒の大きな瞳を輝かせている。男はウォークマンのイヤホンを耳につけたまま、背を丸くして、前のシートに背にカッターの刃を当てていた。口の端にのぞかせた厚い舌が、一本の線を刻み終わるたび、するりと口のなかに引っ込む。そして背筋を軽く伸ばすとまた大きな目を見開き、まん丸の、満月を反転させたような黒々とした瞳を輝かせて次の線にとりかかる。
「にいちゃん、さっきからなに彫ってんのよ?」
 通路を挟んで隣に座っていた男が訊ねた。男は汚れた毛糸の帽子をちょこんと乗せて、ちびちびと酒に口をつけている。若い男は手を止め、イヤホンをはずしながら男の方に顔を向ける。その大きな瞳は、男の顔よりもさらに頭ひとつ上のあたりを見て左右に揺れる。
「え、なに?」
「いや、なに彫ってんのかと思ってさ」
「名前だよ」
「名前?」
「悪いかよ」
「悪かねえよ。おれも子供の頃はよくそうやって名前彫ってたなあ。小学校のときに隣に座ってた女の子が好きでよ、机の上にその子の名前を彫ってたのよ。それで、給食の時間にそこに脱脂粉乳を垂らしてよ、名前が白く浮き出るもんだから、それ見て喜んでたわけよ。それ何回かやってたらよ、匂いが机に染みついちゃってよ。それが始終匂うわけよ。臭いのなんのって、なんたって腐った脱脂粉乳だからよ。それでその隣の女の子がよ、あんまり臭いんで授業中に吐いちゃったんだよな。それがまた臭いのなんのって───」
 バスは第一京浜を過ぎ、JRの高架をくぐって湾岸道路に出た。道路をなぞるようにして、頭上を首都高速環状線が走っている。陽のあたらない道路脇の光景は、濡れそぼったネズミの色に染められている。時折トラックが制限スピードをはるかに超えて、黒々とした排気を撒き散らしながらマイクロバスを抜き去っていく。やがてバスは交差点を右折し、芝浦方面に向かった。大きな運河を渡ると、窓からは林立する倉庫が見えはじめた。道に行き交う車はなく、景観はいっそう寒々しい。
「ま、人の住めるところじゃないわな」
 ひとりの男が誰に言うでもなくつぶやく。
 さらに五分ほど走ったところでバスが停まった。一番前に座っていたスーツの男が後ろに向きなおって言った。
「みなさん、着きました。ここで降りてください」
 男たちが怠惰な動作で立ち上がり、バスのなかほどのドアに向かう。
「酒屋はどこにあんだよ! こんなとこ、店もなあんもねえじゃねえか!」
 一足先に降りた男がスーツ姿の男に叫ぶように言った。
 一番後ろに座っている若い男は窓の外を見ようともせず、最後の一彫りを終えた。肉の厚い頬に深い皺を刻み、にんまりと笑って背筋を伸ばすと、もう一度自分の彫ったシートの背に目を転じる。そこには短い言葉が彫り込まれている。その隣に小さく「チビ」とあった。
 チビは初めて窓から外を見た。目の前に運河があった。幅は十メートルほど。水は墨汁のように黒々として、鈍色の空をも呑み込んでゆらゆらと揺れている。
「出島だよな、こりゃ」
 隣の男がため息まじりに言った。
「えっ?」
 男が顎で示した方向をチビは見た。運河の向こうは小さな島になっていた。外壁に沿って背の高いヒマラヤ杉が隙間なく並び、島の内側を包み隠している。島とこちら側には一本の橋があるだけで、その幅は人ふたりがようやく並んで歩けるほどである。そして島の向こうにそれはあった。
 イヤホンをはずしながらチビが席を立った。立ち上がったチビは隣の男よりも十センチほど背が高かった。
 バスのドアが開いたときからイヤな匂いがした。チビは運河の向こうから流れてくる消毒薬の匂いを瞬時に嗅ぎつけていた。彼には人一倍の嗅覚があった。匂いで人を嗅ぎわけることもできたし、人の気配を察することもできた。そんな能力を幼い頃からまわりの人間は気味悪がった。だからといってチビは隠そうともせず、いつも得意げな顔で、匂うんだよと言った。
 ききすぎた暖房のせいもあって、海から吹きつける風は骨に染み入るようだった。チビはバスのステップを降りながら橋の方を見やった。橋の入り口には頑丈なバリケードが設置され、橋の欄干と鎖でつながれている。バリケードの脇には「東京都臨時保護施設」と稚拙な筆で書かれた看板があった。

  看板の横に初老の守衛がひとり立っていた。スーツの男が近寄ってなにか言うと、守衛は疎ましげに男たちの方をちらと見て、重そうな動きでバリケードをはずしはじめた。男たちは寒さに顔をこわばらせ、守衛の様子を眺めながら鎖が解かれる冷たい音を聞いていた。橋の行き着くところになにがあるのか、彼らにはおおよその見当がついている。その手の施設に入るのは皆初めてではない。多くの者が大田区蒲田にある「蒲田寮」と呼ばれる保護施設に入った経験がある。東京都が配布していたチラシにも目を通していた。そこには<宿泊、食事、衣料の提供のほか、入浴、健康診断、散髪、就労の斡旋>とあった。しかし、あくまでも臨時の施設である。期限は三月下旬まで。期日がくれば即刻施設から追い出される。彼らの都合や意見など誰も聞く耳をもたない。
「じゃあついてきてください!」
 スーツ姿の男の声に、男たちは我を取り戻したようにぞろぞろと歩きはじめた。橋を渡り終える頃、ようやく施設の面が見えてきた。橋の方から見て施設は島の奥にある。建物までの距離は三十メートルほど。人の姿はなく、湾からの風が白い砂を地表から舞い立たせ、小さなつむじを巻いていた。
 正面にある白い箱のような建物は二階建てで、ほぼ同じ造りの棟が三つ並んでいる。その横に管理棟らしき平屋が二棟ある。それらの光景は道すがら見た倉庫とほとんど変わらなかった。
 アルミの引き戸を開けると、右手に職員の部屋があった。ドアの横には小さなガラス窓の受付がある。男たちはその窓ごしにふたりの職員が机に向かっているのを見た。スーツの男が部屋に入ると、職員のひとりがお疲れさまと言って、白い紙の束をつかんで受付の小窓から顔を出した。
「この書類を一枚とって書き込んでください。そこの机の上にペンがありますから」
 男たちはめいめい靴を脱いでスリッパに履きかえると、受付で用紙を手にとり、向かいにある簡易テーブルの上で書き込みはじめた。最初にテーブルについた男たちは、慣れているといわんばかりに筆を走らせたが、後ろに並んだ男たちのなかには酒に酔って名前さえ書けない者もいた。作業用の厚手のジャンバーを着た男は、なにかを必死に思い出そうとしているかのように、陽がたっぷりと染みこんだくしゃくしゃの顔を天井に向けていた。
 チビは男たちの間をするりと抜け、色の落ちたデザートブーツを素早く脱いでなかに入った。ガラス窓の奥をちらとのぞいて、用紙には見向きもせず、靴下のまままっすぐ施設のなかへと進む。部屋のなかにいた若い職員がその様子を見逃さなかった。すぐに部屋を出ると、廊下で追いつき、チビのジャケットの裾をつかんだ。
「どこへ行くんですか?」
 チビはどろんとしたとぼけた顔を男に向け、ウォークマンのイヤホンをはずす。両の瞳は男の頭の上を見て、行き場を失った羽虫のようにゆらゆらと彷徨っている。
「うん、なんか用?」
「どこへ行くんですか?」
「ちょっと気分悪くなってさ。バスのなかで新聞読んでたから」
「トイレならいま過ぎたところですよ」
「あれ、そう? ちゃんと書いてある?」
「ちゃんと表示してあります」
 職員はそう言ってチビの背中に手をあて軽く押した。
「行くよ、行けるよ。ところでさ、ちょっと教えてくれないかな?」
「なんですか?」
 居心地の悪げな様子で、職員はしきりに眼鏡の縁に手をやった。
「ここって、なかでお酒飲んでもいいの?」
「ダメですよ、禁止されてます」
「外では?」
「施設の外で飲むぶんにはいいですけど」
「なんで?」
「なぜって、こちらもそこまでは管理できませんから」
 チビはたっぷりと毒を含んだ笑みを浮かべた。その目尻には爪あとのような深い皺が走っている。
「そう、やっぱり管理しようってわけだね。あんた、おれたちを管理する権利なんてあると思ってるの? それともなに、おれたちは囚人と一緒? 犯罪者ってこと? おれたちがいつ犯罪を犯した?」
「そうゆうわけじゃないです……誤解しないでください」
「だって、あんたいまそう言ったじゃない?」
「ええ……いえ、そうゆう意味で言ったんじゃないってことです」
 チビはいっそう肉の厚い笑顔をほころばせる。
「じゃ、おれ許してやるよ。許してやるからさ、もうちょっと教えてほしいんだけど」
「……なんでしょう?」
「ここって門限とかあるわけ?」
「ありますよ、原則は午後五時です」
「原則? 原則ってなによ?」
「事情がある場合は、それを過ぎても入れないわけではないということで───」
「どんな?」
「はっ?」
「だからどんな事情ならいいんだよ」
「……それはまあ、個人でいろいろと」
「ところでさ、下着くれるって聞いたけど、いつくれるの?」
「入浴の時間に配ります」
「あのさ、いまくれないかな、いま」
「夕飯のあとにすぐ入浴ですから、それまで───」
「煙草、もらえるんだよね?」
「ええ、一日一箱ですが」
「おれ、煙草吸わないんだ」
「はっ?」
「食事は何回あるの?」
「さ、三回です」
「今日の晩飯はなに?」
「ああ、ちょっと確認しないとわからないです」
「あんた、子供いる?」
 男の顎の筋肉がかたく浮き出るのが見てとれた。
「子供だよ、子供」
「関係ないでしょう!  いい加減にしてください」

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「へへ、あんた、いい人だね。おれ、気に入ったよ。いい匂いするしね。でも、この施設はどうも気に入らないんだ。イヤな匂いがするんだよ。だから、今日のところは帰るよ。簡単に出られるかな? 出られなければ、出れるようにしてほしいんだ」
「じゃあ、なんでここに?」
 チビは待ち受けていたかのように得意げな笑みを浮かべ、漆黒の瞳を輝かせる。
「女の職員がいたら犯してやろうと思ったんだけど、どうも野郎ばっかりみたいだね。おれ、あんたにはなんにもしないよ。ここから出してくれるよね。仲間にも報告しなきゃいけないんだ。ここがどんなところかっての。ねえ、出してくれるよね? すぐに出してくれるんだろう?」
 五分後、若い職員とチビは橋の上にいた。守衛があの大儀そうな仕種でバリケードを少しだけ開け、手だけで通れと合図した。チビは歩きながらジャケットのポケットからウォークマンのイヤホンを取り出して耳につけた。耳を打つ音楽に混じって、背中ごしに鎖のつながれる冷たい音が聞こえた。しばらくして振り返ると、守衛が寒そうに肩を縮めて看板の横に立っていた。若い職員の姿はもうそこにはなかった。

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