私の部屋の押し入れの一角には、『トイ・ストーリー』のキャラクターグッズの箱がどっさり積まれている。何を隠そう、押し入れに隠そう、私は『トイ・ストーリー』が大好きなのだ。洋邦を問わず、好きなアニメや映画ならたくさんあるが、後にも先にも、ここまで大量のグッズ買いにハマッたのは『トイ・ストーリー』だけだ。『トイ・ストーリー』のキャラクター・グッズは特別である。他のキャラ物とは全然違うのである。
たとえば私より少し若い人たちは「ガンプラ」にハマッた世代らしいが、ガンプラというのは「ガンダムのプラモデル」だ。アニメの中のガンダムを模したプラスチック製の模型だ。本物のガンダムではない。何を当たり前のことを言ってるのかと思われるだろうが、本物のガンダムは買えない。昨年夏、お台場に建った「実物大ガンダム」を見に行ったオタクも多いことだろうが、あれとて本物のガンダムではない。アニメのように人間が操縦して走ったり飛んだりすることはできないし、破壊光線を発射したりもしない。金属製っぽく仕上げられた素材も実は特殊プラスチック製である。つまり実物大プラモデルだった。いや、キャラクター・フィギュアというものは何でもそうである。たとえ実物大でも、あくまで実物を模したものであって本物ではない。当たり前だ。
ところが、『トイ・ストーリー』の場合に限っては違う。『トイ・ストーリー』のキャラクターたちは、そもそもがオモチャなのだ。彼らは映画の設定においても、オモチャ屋で売られるオモチャとして生まれた、大量生産品の中の一体なのである。よって『トイ・ストーリー』グッズの中でも、とりわけ映画の設定と同サイズ同機能で作られたフィギュアのシリーズは、映画のウッディやバズの個体そのものではないとしても、それとまったく同型の「本物」のオモチャなのだ。通常のフィギュアで味わう疑似感覚とは違うことがお分かりいただけるだろうか。言うなれば、『007/ゴールドフィンガー』でジェームズ・ボンドが乗っていたアストンマーチンDB5と同型のビンテージカーを買うとか、ジェームズ・ディーンが『理由なき反抗』で穿いていたLee101ライダースとまったく同モデルのビンテージデニムを買うといった、「本物を所有する満足」方向のコレクションなのである。いや、ウッディたちは元が架空の商品なので、厳密に言えば意味合いは違うのだが、その虚実の境目のバーチャル・リアリティ感と、楽屋オチ的センスに惹かれるのである。
だからハマッた。アストンマーチンを買う金はないが、『トイ・ストーリー』のオモチャなら1体数千円で買える。『トイ・ストーリー』第1作が公開された14年前当時、30代前半で「大人買い」を覚えたての年頃だった私は、中野ブロードウェイのオモチャ屋に足しげく通い、『トイ・ストーリー』のリアル系シリーズが入荷するたびに買いまくった。ウッディもバズもミスター・ポテトヘッドもスリンキーもハムもレックスもボー・ピープもミスター・マイクも……もちろんバケツ入りのグリーン・アーミー・メンも……知らない人には何のことやら分からないだろうけど、とにかく何でもかんでも買ったのだ。
こうして揃った『トイ・ストーリー』コレクションだが、私は映画の中のウッディやバズの持ち主アンディのような少年ではなく、すでにいい歳をしたオッサンだったので、そのオモチャたちを手にして遊ぶことはなかった。部屋がオタクっぽくなるのも嫌なので、棚に飾ったりもしない。買ってすぐ押し入れにしまった。ただ持っているだけで満足という所有欲である。我ながら実にくだらない欲望だとは思うが、なぜか男子の血の中にはそういうコレクターDNAが刻み込まれてしまっているものだ。押し入れで日の目を見ない彼らだが「ひょっとするとコイツら、俺が見てない間は映画のように勝手に外を動き回ったりしてるんじゃないか……」なんてことを0.003%ぐらいは本気で信じていたりもした。
その後、『トイ・ストーリー2』を見て私は反省することになる。『2』では、カウガールのジェシー(彼女はウッディと同じテレビ番組のキャラクター商品)とウッディが出会い、セットで日本のコレクターに売られてしまいそうになる。ジェシーはかつて、持ち主の少女が大人になって捨てられた辛い経験がトラウマとなっていた。ウッディは自分の持ち主のアンディの元へ帰るべきか、それとも「もう捨てられるのはイヤ」「いつかアンディが大人になれば、あなたも捨てられるのよ」と言うジェシーと一緒に日本のオモチャ博物館に飾られた方が幸せなのか……と葛藤する。結局、主役のウッディ人形がなければ箱にしまわれたままのジェシーを思いやり、ウッディは博物館へ行く決意をするのだが、バズたち仲間が引き留めにやってくる。「アンディは君を捨てたりしないよ!」と。……すまなかった、と私は押し入れの中の「俺所有のウッディたち」に詫びた。俺みたいなオッサンにコレクションされて押し入れにしまい込まれるより、子供たちに遊んでもらった方がオモチャの幸せなんだよなあ……。さすがピクサーの賢人ジョン・ラセターは、痛いところを突いてくる。
光陰矢のごとし。『トイ・ストーリー2』からさらに10年の歳月が流れ、この夏、『トイ・ストーリー3』が公開される運びとなった。予告編を見た時から「これはヤバイ」と思った。あれから10年、今度の『3』は、すっかり成長したアンディが実家を離れて大学へ行く年齢となり、オモチャたちと別れる話になるという。二度と帰らない幸福な子供時代との訣別……『2』のジェシーの回想シーンで泣かされた私だ。これは号泣必至に違いない。いや、予告編を見ただけでもう目がウルウルになっていた。
それは奇しくも私の誕生日だった。「○○回目の誕生日」と数字は書きたくないほど正真正銘のオッサンになった私は、『トイ・ストーリー3』完成披露試写会に馳せ参じた。映画はなるべく事前情報をあまり仕入れず見るようにしているので、試写会場に行って初めて知ったのだが、今回の監督は前2作のジョン・ラセターとは違うのだった。それを知り、いよいよ披露された『3』を鑑賞させていただくと、確かに微妙にタッチは変わったような気がする。ラセターのマイルドなユーモア感覚に比べると、悪役が悪役すぎ、残酷なところが残酷すぎるような……。といっても、あえて批評的なことを言おうとすればそう言える、という程度のこと。『トイ・ストーリー』の本質は何も変わらず、しっかり守られていた。物語はちゃんと着地すべきところに着地する。こんなシーンを見せられたら感涙するだろうと想像した通りのものを見せられ、マスコミ関係者が集まる席なのにも関わらず、号泣を抑えることは不可能だった。
『2』から『3』の間で映画の中のアンディの世界に過ぎ去った10年の時間と、映画を見る私たちの現実の10年がぴったり重なるところが、優れた企画だと思う。「10年後の今になって続編を作ることになったのでこういう話にしました」というのではなく、この話を見せるために10年を待っていたんじゃないかと思わせる、見事な完結である。ありがとう、ピクサー。世界中の多くのファンにとってそうであるように、『トイ・ストーリー』は私の人生の一部でもある。それは「オレ様の映画論」として仰々しく開陳するようなものではなく、「僕の心の映画」という口に出すのも恥ずかしいような、押し入れに隠した宝箱のような場所に収まっている。