バンクーバー冬期五輪が始まった。根がミーハーな私は五輪というお祭りが大好きで、普段はスキーやスケートの競技大会など見ないくせに、4年に一度はテレビに熱中してしまう。「今日は上村愛子のモーグルだぜ」なんてソワソワしちゃってたりする自分がいる。「仕事そっちのけじゃい」というのをサボリの言い訳にすることも多々あるわけで、まったく困った野郎だなあ、自分。
ところで、スノーボードの日本代表選手の服装がだらしないことに抗議が殺到し、謝罪会見を開いて開会式への参加を自粛したというニュースが報道されている。これが何だかどうもスッキリしない。
たしかに、あの服装は私のような年代の者には不快に感じられるし、会見の態度を見ると「何だこの自己チュー野郎は」と思った。つまり「あいつは気にいらん」と思う人々の中に私も含まれている。しかし、だからと言ってオリンピック委員会やスキー連盟への抗議行動を支持するものではないのだよなあ。私がスッキリしないのは、あんな奴を代表にするなという憤りではない。ああいう人が代表になっているのを見せられたことで「オリンピックって何なんだっけ?」という疑問が湧いてしまったことである。
つい最近、大相撲の朝青龍が暴力事件で引退を余儀なくされた。長年にわたり「横綱の品格」を問われ続けたあげくの顛末である。そこで繰り返し論じられたのは「大相撲の横綱という存在は単にスポーツのチャンピオンという地位ではない」という論理だった。「普通のスポーツなら強いだけでチャンピオンとして認められるが、相撲の横綱というのは強いだけじゃ駄目なんだよ」ということだ。朝青龍の問題はおいておくとして、そこで繰り返された「普通のスポーツだったらいいけど」というエクスキューズに示されていた「普通のスポーツ」とは何だったのか? 五輪が普通のスポーツの祭典だとすれば「強いだけでチャンピオン」なのだから、国内大会で最高成績を残した選手はそれだけで代表として認められるわけで、服装うんぬんといった「品格」は求められないはずだ。しかし、現実には某スノーボード選手の服装や態度が五輪代表にふさわしくないという批判と抗議が巻き起こっている。それは「五輪は普通のスポーツ大会ではない」という意識の現れに他ならないのではないか。
考えてみれば、たしかに五輪は普通のスポーツ大会ではないことに気づく。五輪には必ず聖火リレーと点灯式が行われるが、あれはどう見たって宗教的儀式だろう。そもそもオリンピックという名称は古代ギリシャにおいてゼウスの神殿を祀ったオリンポスで開催された古代オリンピックに根ざしている。近代オリンピックが1896年に始められた時、当時は普通に行われてはいなかったマラソンや円盤投げのような競技が、わざわざギリシャの伝統に沿うために企画され、それが現在も続けられているのだ。
近代オリンピックは古代オリンピックを手本とし、「参加することに意義がある」の名言で知られるクーベルタン男爵(実際は彼がこの言葉を言ったわけではないらしいが)の提唱によって近代の国際社会(正確に言うなら欧米主導の国際社会)の融和の祭典として始められたものだ。開会式では平和の象徴である鳩が放たれ、平和に関する演説がなされることが決まりになっている。これは政治的セレモニーではないか。つまり今われわれが見ているオリンピックとは、古代ギリシャの政治と宗教に範を求め、近代の政治的意図で開催されているお祭りなのだ。けっして「いろんなスポーツの種目で世界一強いやつを決めようぜ大会」なのではない。そう考えると、ある選手のふるまいが伝統的、政治的に見て正しくないという批判や抗議が起きるのも無理はない。
ここで思い至ったのは、某選手が日本のスノーボード代表としてふさわしいのかという問題よりも、そもそもスノーボードという競技がオリンピックにふさわしいのかという問題だ。スノーボードに似た遊びは200年ぐらい前にまでさかのぼることもできるらしいが、現在のような形に洗練され始めたのはせいぜい30年ぐらい前の話であり、それが広く愛好されるようになって競技スポーツとしての国際組織が整ったのは、たかだかここ20年ほどのことだ。私が大学生の頃に『007/美しき獲物たち』でボンドがスノボみたいなことをやるのを見たが、その当時はまだ「スノーサーフィン」という名称の方が一般的だったと思う。スノーボードとはそれくらい歴史の浅いスポーツである。
歴史の浅さはそれ自体が若者にとって魅力でもあるだろう。今、若者がスキーを始めようとしたら70代のスーツを着たお爺ちゃんから「私たちの頃のスキーはね……」と教師ヅラをしてウンチク垂れられたりすることもあるだろうが、スノーボードの場合はせいぜい40歳前後のフリースを着た茶髪オヤジから「俺らの頃のボードはよぉ」と兄貴ヅラで言われる程度だろう。スノーボードはスキーより自由だよね、と思うはずである。「鼻ピアスにドレッドヘアで、腰ばきズボンで行儀の悪いタメ口で、何が悪いの?」というのは、スノーボードの20年の浅い歴史の中では何も咎められるべき態度ではないんじゃないか。
そういう「きのうきょう始まったばかりのスポーツ」であるスノーボードが「3000年近く前の古代ギリシャの伝統を手本にし、100年以上前から続けられている近代オリンピック」の競技になっていることは、ふさわしいことなのだろうか。野球が五輪種目から外されたのは世界で広く愛好されてはいないからという理由だった。野球の地理的広がりが小さいことが否定されるのなら、特定の世代にしか身近でないスノーボードやビーチバレーのような種目の、時間的広がりの小ささも否定されるべきではないのか(もちろん、それを言ったら愛子ちゃんのモーグルが属するフリースタイル・スキーも否定しなきゃならんのですけどね)。
「まあ、若者にウケてるんだから五輪種目になっていいんじゃないの、そういう時代ですよ」というのはオリンピックの伝統の重みには反していると思うが、国や人種や世代の違いでケンカしないで仲良くしましょう(というフリをしましょう)というオリンピックの政治的意図には合致していると思う。しかし、そんな高邁な理想でスノーボードが五輪種目に入ってるわけじゃないよなあ。
よく言われるように、現在のオリンピックは商業化している。始まりは1984年のロサンゼルス五輪だった。税金を使わないで民間で運営することを標榜したロサンゼルス五輪は、高額のテレビ放映料とスポンサー協賛金、入場料やグッズ売り上げで大会をまかなう方針を打ち出して成功し、以後のオリンピックはそれにならうようになったのである。テレビで「○○社は××オリンピックを応援しています」というCMが流れるようになったのはそれ以降のことなのだ。長野五輪の時に18歳だった上村愛子ちゃんは、IBMのCMで「モーグルって知ってます? 始めて4年でオリンピック候補になっちゃうんだよ。お母さんもすっごいビックリしてる!」と無邪気に笑って国民的アイドルになったのだった。
現在のオリンピックとは「古代ギリシャの政治と宗教に範を求め、近代の欧米諸国の政治的意図で始められ、現代のグローバル資本主義社会の市場原理で続けられているお祭り」なのである。スノーボードが五輪種目に選ばれているのは、若者に人気の競技もどんどん取りいれていかないとテレビ視聴率が下がっていくだろうという商業的思惑がベースにあるのだと思う。JOCには国からの助成金も交付されているが、それ以上にオリンピックは企業の金で動いている。だから、今回のスノボ選手への批判で「国民の血税を使っている代表選手として」という批判はどうもピンとこない。われわれが払う税金よりも、われわれが商品を買う代金に含まれている広告料がオリンピックを支えているのだ。
「日本人として恥ずかしい」とナショナリズム的に憤る人たちや、「私たちの血税を使っているのに」と市民の権利を主張する人たちのように、「間違ってない自分」が「間違っている選手や団体」を批判するというポジションには私は立てない。おそらくいつものスノーボードの大会と同様の態度をとっていただけの若者を、オリンピック選手としていかがなものかと不快に思ったわけだが、その事態を招いた責任の一端には、自分が日々商品を買うことで加担してしまっていたのである。ああ、俺が毎日飲んでいるビールや毎日使っているコンピュータに払った金が回り回って、こんな青二才の自己表現に使われてるんだなあと思うとトホホとしか言いようがない。
だからオリンピックなんて馬鹿が騒ぐお祭りだよ、と賢い人たちは言うだろう。でも自分は馬鹿だからオリンピックを楽しみたいのです。愛子ちゃん、気持ちいいスマイルを見せてね。
いちおうCINEMA CLUBなので映画紹介を最後に。『The First Olympics : Athens 1896』というロサンゼルス五輪の年にアメリカで放映されたテレビ映画がある。1896年の近代オリンピック第一回アテネ大会がどんな風に行われたのかを再現するドラマで、作品的には特に質の高いものではないものの、オリンピック好きなら興味深く見られるでしょう(日本未公開・ビデオも未発売だけど、たとえばAmazon.comからVHSを入手可能です)。