Krash Cinema Blog

ライター。元・日本美女選別家協会会員。
1963年倉敷(水島)生まれ。
コチラでも映画の話を書いたりしてます。

寅さんと、北野武と喫茶店

 カフェという言葉がどうも好きじゃない。そのオシャレっぽさが気恥ずかしいのかもしれない。たとえば『バグダッド・カフェ』だ。どうしようもなく惨めな連中の吹きだまりになってる場末のモーテルの話なのに、これがオシャレさん映画になっちゃって「素敵だわぁ、バグダッド・カフェに行ってみたいわぁ」みたいなことになってるんだもんなあ。
 カフェってなんだい気取るんじゃねえよ、キッチャテンのことだろ、とフーテンの寅さんなら言うだろう。
 明治だか大正の日本に喫茶店ができはじめた頃、それはハイカラで素敵なトレンディースポットだったに違いなく、やっぱり「カフェ」と呼ばれていたらしい。しかし、僕らが育った昭和40年代頃にもなると、すでに喫茶店というのは日常的にありふれた場所になり果てていた。
『前略おふくろ様』で桃井かおりが何かにつけてはショーケンを呼び出し、やっかいごとを持ちかけては「海ちゃん、オレ困るっスよ」とショーケンをオタオタさせながら、桃井かおりはノンキな顔して「アメリカのコーシーちょうだい」とアメリカンコーヒーを注文する。そんなコント的日常が繰り広げられるユルユルに弛緩した空間こそが、僕らの想う喫茶店である。
『男はつらいよ 寅次郎恋歌』で、池内淳子扮する子連れの未亡人に恋した寅さんは、彼女が柴又帝釈天の横手に開いた喫茶店に入りびたる。これがまたオシャレのオの字もつかないような店で、池内淳子がコーヒーのドリッパーにお湯を注ぐのは、お決まりのホーローのポットですらなく、大きなアルミのヤカンだった。タコ社長の工場の「労働者諸君」がドヤドヤと押しかけ、カッコつけた寅さんが「おう、さくら。この連中の分も払っといてやんな」と、五百円しか入っていない財布をカウンターに置いていく。正しいキッチャテンの風景である。
 ちなみに、この『寅次郎恋歌』は博(前田吟)の郷里として岡山県高梁市にロケした作品で、当時まだ現役だった伯備線のSL(蒸気機関車)の雄姿を見ることができる。もう本当にSL末期の頃で、小学校の低学年だった僕らが学校帰りに、倉敷の平田あたりの高架をSLが走っているのを目にすると、むしろ非日常な感動を覚えたものだ。かつてSLが惜しまれつつ消えていったように、今、「昔ながらのごく当たり前の喫茶店」が日本中から消えつつある。


『キッズ・リターン』は北野武作品の中でいちばん好きな映画だ。天才たけしの気負いがないところがいい。「どうだ、オレの映画は普通じゃねえぞ」とセオリー外しばかりやってみせる北野映画にはめずらしく、奇をてらわず、ありきたりの青春映画のパターンを平気でなぞっているのがいい。まあ、巨匠としては「あえて普通の話を語ってやったぜ」という一回転ヒネリなのだろうとは思うけれど。
 金子賢と安藤政信の二人を軸にしながら多数の青春群像を描いていく映画の中で、登場人物たちが交錯する場所として用意されていたのが喫茶店だ。「カトレア」という名の、かつてどこにでもあったような喫茶店である。合皮張りの椅子と正方形のテーブル。薄暗く、とりあえず何もかも焦げ茶色に統一してみましたという、センスもへったくれもない内装。同じような喫茶店がどこにでもあったが、チェーン店ではない。映画では丘みつ子扮するママの個人経営だ。
『キッズ・リターン』は平成の映画だが時代設定はまったく不明で、デタラメに昭和的な情景が描かれる(ついでに時間経過の描写もかなり乱暴で観客を戸惑わせる。さすがに北野流セオリー外しの術が完全に封印はされていない)。いつとも知れぬ時代の喫茶店で、金子賢と安藤政信はダラダラと無意味な日常を過ごす。喫茶店でドラマチックな出来事など起きない。金子たちの同級生の一人が店の娘に惚れているが、この恋だって少しもドラマチックにはならない。ただ彼女にコーヒーを運んでもらい、「映画に行きませんか」と誘うのを彼女に無視され続けるだけだ。
 ありきたりの喫茶店には、ありきたりの退屈な時間が流れる。退屈な時間が実は青春の大部分を占めている。退屈から抜け出すために金子はヤクザになり、安藤はボクサーになるが、あっけなく敗れて元の日常へ帰ってくる。美しくも輝しくもなく、せつないのが青春という時間なのだ。ありきたりの冴えない喫茶店こそが青春のリアルにふさわしい。青春の場所がホウ・シャオシェンの『珈琲時光』みたいに、柔らかな光に包まれた素敵なお店に見えてしまっちゃいけないのだ、と思う。