Krash Cinema Blog

ライター。元・日本美女選別家協会会員。
1963年倉敷(水島)生まれ。
コチラでも映画の話を書いたりしてます。

3/7 スピルバーグについて言いたかったこと

 前回「おひさしぶりです」と書いたのに、それからまた一カ月も経ってしまった。ほんとに申し訳ない。こうなると、「予定通り月イチの更新です」と開き直った方が、爽やかな態度というものかもしれませんなぁ……。

 実は前回の書き込みの後、スピルバーグについて続きを書こうと思っていたので、間が空いてしまってマヌケだけれども書かせてもらおう。

 私はつねづね、世間はスピルバーグを誤解してると思っている。
「やっぱスピルバーグの映画だからハズレはないよねー。とりあえず金かかってるぞー、みたいなー……」派の人も、「スピルバーグ? ゴメ〜ン、私、ハリウッド映画嫌いだからほとんど見たことないんだよねー。単館系しか見ないからぁー……」派の人も、ホメるにしろケナすにしろ、たいていの人は「スピルバーグ作品=ハリウッド映画の典型」と決めてかかる。
 たしかに、スピルバーグは米ショウビズ界の頂点にふんぞり返るビジネスマンではある。しかし、だからと言って、映画作家としてのスピルバーグの作風は「いかにもハリウッド映画の典型」だろうか? 

 よく言えば「万人向けに分かりやすいストーリー、ハッタリの効いた画面で観客をグイグイ引き込む映画」、悪く言えば「見かけは派手だが中身のない、底の浅い映画」……というのが一般的に言われる「ハリウッド映画」のイメージである。
 はたしてスピルバーグの映画は分かりやすいだろうか?新作『ミュンヘン』はユダヤ民族であるスピルバーグがイスラエルとパレスチナの対立問題を描いたことで話題になっているが、イスラエル擁護なのかイスラエル批判なのか、反テロなのかテロ肯定なのか、まったく曖昧ではないか。
 あるいは戦争映画『プライベート・ライアン』や『太陽の帝国』でも、反戦なのか好戦なのか、あるいは必要悪としてやむを得ず武力肯定派なのか、そういったメッセージがストレートに伝わる映画にはなっていない。反戦なら『ターミネーター2』のように、好戦なら『トップガン』のように、もっと分かりやすくアトラクション的に、「ハリウッド的」に作る方法はいくらでもある。なのに『プライベート・ライアン』『太陽の帝国』のメッセージ性はまったく曖昧で、「分かりやすいハリウッド映画の典型」からはかなり遠い。スピルバーグはむしろ『地獄の黙示録』などに近い高級な路線の映画を目指していたはずだ。

 なにしろ難解な作風の代表選手のように言われるキューブリックとも親しく、彼の遺稿を引き継いで『A.I.』を撮ったりもしたスピルバーグである。
 しかし『A.I.』に対して世間は、ディズニー好きを公言しているスピルバーグ作品だからという思いこみで、『ピノキオ』の近未来バージョンを期待した。いたいけな少年ロボットが母をたずねて三千里、かわいそうだわ〜……と涙することができる映画を観客は勝手に期待したのだが、『A.I.』はそんな映画ではなかった。
「インプットされた愛なんて、本物の愛とは呼べない」だとか「人間どもが身勝手で、見ていて気分が悪くなった」と批判調の感想が相次いだが、それは自分の期待した種類の映画ではなかったという不満にすぎず、作品の達成度に対する批判にはなっていない。
「高度に進化した人工知能は人間と等価になるのか」「身勝手な人類の行く末はどうなるのか」というのがキューブリックから引き継いだ『A.I.』のテーマであって、「これは愛と呼べるのか?」「人間性とはこういうものなのか?」という疑問が湧いてくることは作り手の狙い通りなのに。

 スピルバーグが誤解され、勘違いな批判や賞賛をされる監督になってしまったのは、世間のイメージがスピルバーグの80年代の作品群、とりわけ『E.T.』と『インディ・ジョーンズ』シリーズに拠っているからだ。
 たしかに、それら80年代の大ヒット作は「よく言えば「万人向けに分かりやすいストーリー、ハッタリの効いた画面で観客をグイグイ引き込む映画」であり、悪く言えば「見かけは派手だが中身のない、底の浅い映画」という評価にピッタリだと思う。
 しかし、劇場用映画デビュー以降だけでも30年以上に渡るスピルバーグのフィルモグラフィーの中で、それはほんの一時期にすぎない。
 ただ、その一時期のスピルバーグの商業的な大成功が、以後のハリウッド映画に多大な影響を与えたことも事実である。その「よく言えば……」の部分を発展させたのが『タイタニック』や『ターミネーター』シリーズのジェームズ・キャメロンだったのだろうし、「悪く言えば……」の典型が『トップガン』『アルマゲドン』『パイレーツ・オブ・カリビアン』等々のジェリー・ブラッカイマー(監督ではないが作品のコントロール度がかなり強いプロデューサー)ということになるだろう。

 30年以上のスピルバーグのフィルモグラフィー全体を俯瞰して浮かび上がってくるのは「分かりやすいハリウッド映画」監督の姿ではない。
 そもそも70年代にキャリアをスタートさせたスピルバーグは、アメリカン・ニューシネマの空気を呼吸して映画作りを始めた人間だ。劇場用映画デビュー作『続・激突! カージャック』は典型的なニューシネマの一つに数えられている。
 ニューシネマの特質は、物語的にはヒロイズムやハッピーエンドを否定し、映像スタイルはロケーション撮影を主体としたドキュメンタリー風の撮影方法を採り、演技面では即興を重視するという、いわゆるリアリズム志向にある。

 スピルバーグの特質はリアリズムにある。『E.T.』の満月を横切って自転車が飛ぶシーンや、『レイダース/失われた聖櫃<アーク>』でインディ・ジョーンズが巨大な球体の岩石に追われるシーンの、あまりにマンガ的な構図の印象が強いために、ハッタリのインパクトのみで見せる監督みたいに思われているが、他の多くの作品はそうでもない。

 たとえば『宇宙戦争』だ。この映画から『E.T.』の満月や『レイダース』の大岩石のような、分かりやすいイメージの代表になるワンショットを抜き出すことは難しい。宇宙人の乗る三本足の殺人マシーン「トライポッド」が人間を襲ってくるド迫力に圧倒される映画だが、その迫力は映像的ハッタリの強さによるものではない。
 同じ原作にインスパイアされた10年も前の映画『インデペンデンス・デイ』の方が、いかにも大迫力ですよという大仰な構図や大爆発描写のオンパレードである。ハッタリでビックリ、の要素なら『インデペンデンス・デイ』の方がよっぽど強い。
『宇宙戦争』の迫力の源は過剰にマンガ的なデフォルメ演出によるものではない。荒唐無稽な設定でも自然に見せる、スピルバーグのリアリズム感覚がトライポッドの実在感を生み出しているからだ。

 最新作『ミュンヘン』は、そんなスピルバーグの本質を最もよく伝えてくれる映画である。72年のミュンヘンオリンピック事件を題材にしたおかげで、スピルバーグは本格的に70年代的撮影スタイルに立ち戻った。ロケーション中心で、カメラはズームレンズを多用した撮影法だ。
 昨今のハリウッド映画は絵コンテの段階でアングルやカットつなぎまで入念に決め込んで撮る。いかにもハッタリの効いたカッコいい絵を撮ることはできるが、作為的な感は免れない。フレームの一歩外には、レフ板や録音マイクやメイク道具を持ったスタッフが取り囲んでいるのが見えるような気配がする。
 ニューシネマ的なロケ撮影とズームレンズの採用は、現実の風景のごく一部を切り取ったように「自然に」見せる。画面で見ているものが、あらかじめ準備され決め込まれた枠内の絵空事なのではなく、画面の外にも同じ世界が果てしなく広がっているのだというイリュージョンを与える。

 ハナからドキュメンタリータッチを志向した『ミュンヘン』のリアリズムは当たり前のことだが、他のスピルバーグ作品でも同様である。『宇宙戦争』ではプレヴィジュアライゼーション(本編を撮影する前にCGアニメで完成予想の動画を撮っておくこと。いわば動く絵コンテ。昨今のSFX大作では当たり前の手順になっている)を使用しているにもかかわらず、出来上がった本編は予定通りの段取りの結果なのではなく、たまたまカメラに写った現実の一部であるかのように見える。
「コンテですべてを決めてしまうのではなく、撮影現場で感じたことを反映させることが重要だ」とスピルバーグは『宇宙戦争』のメイキングの中でも語っている。かつて『ジョーズ』で注目された時、サスペンス演出の手腕を「ヒッチコックの再来」と騒がれたスピルバーグだが、シナリオとコンテを重視し「撮影前に映画は出来上がっている」と豪語したヒッチコックは、実はスピルバーグとは対極の映画作家だ(もちろん、どちらが正しいということではなく、双方が天才的なのだが)。
 ドキュメンタリズムを重視するスピルバーグ演出によって『宇宙戦争』は、たとえ画面に1体のトライポッドしか映っていなくても、その周りに無数のトライポッドが闊歩しているのだという実在感を与えてくれる。盟友ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』新三部作が絵コンテをなぞっただけのような、まるで死んだように説明的な映像で埋め尽くされているのとは対照的に、スピルバーグの映像は生きている。

 しかし残念ながら、『宇宙戦争』はあまりウケなかった。ここにはスピルバーグの体質がよく現れていると思う。『宇宙戦争』はトライポッドの襲撃から逃げまどうトム・クルーズ一家の姿を描くことが中心になっているが、スピルバーグは逃げる側のサスペンスを描くことが実は苦手だ。
 獲物を追って狩る側を描くのが何より上手いのがスピルバーグなのである。なにしろ『ジョーズ』では人間を襲う鮫の一人称カメラという、当時としては画期的な手法を編み出したスピルバーグだ。
『ジョーズ』は前半では人間を狩る鮫の視点を追い、後半は一転して鮫を狩る人間側の視点で描くことによって傑作になった。同様の意味で、恐竜から逃げる人間を描いているだけの『ジュラシック・パーク』よりも、恐竜狩りを描いた『ロスト・ワールド』の方が面白い映画になっていた。

『ミュンヘン』においても、スピルバーグの長所と短所は如実に現れている。
 モサドのメンバーである主人公がパレスチナゲリラを追って暗殺していく前半は、狩りの興奮と緊張を描く天才であるスピルバーグの才能が遺憾なく発揮され、暗殺が成功するか否かのサスペンスに満ちた傑作リアリズム映画になっている。
 しかし、主人公が暗殺のミッションから解任され、逆に自分が狙われているのではないかという疑心暗鬼に駆られる後半に入ってから一気にテンションが落ちてしまう。後半も狩りをする側の視点を描けば……つまり主人公を監視するモサドの上官ジェフリー・ラッシュの視点にスイッチすれば、もっと面白い映画になったのではないかと思う。
 と言っても、天才スピルバーグに私ごときが意見を差し挟む立場ではないのは言うまでもないのだが。