Krash Cinema Blog

ライター。元・日本美女選別家協会会員。
1963年倉敷(水島)生まれ。
コチラでも映画の話を書いたりしてます。

水島シネマ・パラダイスのころ。

mizushima_cinema.jpg 生まれて初めて映画館で観た映画は『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』だ。今から40年近く前、私は幼稚園児で、まだカラーテレビも普及していない“三丁目の夕日”な時代の話である。大スクリーンに広がる総天然色の世界は驚異の連続。ガメラの体から吹き出る緑色の血の鮮烈な印象は子供心に焼きついている。
 当時、私の家は水島西栄町にあった。『ガメラ対ギャオス』を観たのも水島の映画館である。たぶん、まだ成人映画専門館になる前の「水島大映」で観たのだと思うが、記憶は定かではない。それより後、私のよく覚えている70年代〜80年代初頭の水島の映画街は、邦画専門の「水島東映」と洋画専門の「水島プラザ」が新しいビルの1F2Fにあり、隣の古い建物に成人映画専門の「水島大映」があるという形になっていた。当時は新作映画がまず岡山で封切られ、それが倉敷の映画館に流れ、次に水島の映画館でかかる。つまり水島の映画館は“三番館”だった。まあ、そんなことを説明してみても虚しい。今はもう、ほとんどの映画館がなくなってしまった。
『ガメラ対ギャオス』は祖父に連れていってもらったのだと思う。両親は怪獣映画には眉をひそめていたので、いつも怪獣映画の引率役を引き受けてくれるのは祖父だった。「ふん、やっちもねえ(くだらない)」と言いながらも孫に付き合ってくれた。
 父親が初めて映画館に連れていってくれたのは、『ガメラ対ギャオス』から数年後のこと。水島プラザで上映された『シェーン』である。もちろん『シェーン』(1953年作品)は当時の新作ではなく、リバイバル上映だった。親父は自分が若い頃に見て感動した傑作西部劇を息子たちに見せたかったらしい。私にとっては初めて見る洋画であり、字幕つきの映画だった。
 貧しい開拓農民の一家に世話になった流れ者の男シェーンが、一家を苦しめる土地の悪党どもをやっつける。「シェーン、カムバーック!」と少年の叫び声がこだまする荒野を、一人去っていくシェーンの後ろ姿……というラストシーンはあまりにも有名だ。早撃ちの二枚目ヒーローに少年は憧れるが、シェーンの寂しい後ろ姿は少年に語っている。「俺のようなヤクザ者になるな、本当に男らしいのはお前の父さんみたいに妻と子のために毎日汗水たらして働く男だ」と。父親が息子に見せる映画として実に正しい。しかし、息子がただの映画バカになってしまうとは、ウチの親父も予想できなかったようだ。

 日本の高度成長期が終わり、水島の街もさびれはじめたころ、私の家は水島から引っ越して倉敷の中心部に移った。水島の映画館に行くことはなくなったが、中学生になった私が岡山や倉敷の映画館に入りびたる映画少年になったころ、とある縁で水島の映画館の支配人を紹介してもらうことになった。支配人の笠井さんは「そんなに映画が好きなら、いつでも見に来なさい」と、水島東映・水島プラザ共通の無料パスを私に発行してくれた。岡山、倉敷で見逃した映画も、すべて水島でタダで見せてもらえるようになったのだ。それから高校を卒業するまで、毎週日曜日はチャリンコで小一時間の距離を水島に通い、二本立て、三本立ての洋画邦画を朝から晩まで見まくった。その一本一本の思い出を語ったらきりがない。
 中高生のころの私は人見知りで無口だったが、笠井さんも寡黙な人だった。映画館で会っても笠井さんは「ああ、いらっしゃい」と言うだけだし、こちらはペコリと頭を下げるだけ。ほとんど映画の話をしたこともない。一度だけ、私が『カサブランカ』のハンフリー・ボガートのイラストTシャツを着ていたときに、笠井さんに「お、ボギーだね」と声をかけられたことがある。この人はハードボイルドな人なんだな、と思った。
 水島の映画館が10年ほど前に閉館したことは知っていたが、笠井さんが亡くなったことは最近になって知った。笠井さんに見せてもらったたくさんの映画が自分の人生にとってどれほど大きかったか、その御礼をきちんと伝えられなかったことが残念だ。
 今のシネコンやミニシアターはカップルか女同士の客が中心だが、昔の、私が知っているころの映画館は男の場所だった。水島の映画館を思い出して頭に浮かぶのは、祖父や、父や、笠井さんや、名も知らぬオッサンたちの姿だ。何も言わずに何かを教えてくれた、昭和の男たちの体臭である。