Krash Cinema Blog

ライター。元・日本美女選別家協会会員。
1963年倉敷(水島)生まれ。
コチラでも映画の話を書いたりしてます。

『がんばれ!ベアーズ』

bea.jpg もうすでに忘れられていることを蒸し返すようでアレなのだけれども、岡山発のニュースということで気になっていたのが、某高校野球部の「全裸ランニング」の件だ。いったい何だったのだろうなぁ、あのニュースは? 岡山県内では詳細な報道がされたのかもしれないが、全国版ではまったく中途半端な扱いだった。
 全裸でランニング……。全裸と言えばハレンチだ。ニュースの見出しとしてインパクトがある。これはぜひ報道しよう。……というマスコミの思惑は単純に想像できる。でも、ニュースの内容は単純には理解しにくい。
「全裸で暴走!」なら何かえらいことが起きている雰囲気だが、「全裸でランニング」である。ランニングといはいかにも健全で、ノンキな風情すら漂う言葉だ。全裸でのんびりランニング。何が起きているのかよく分からない事態である。
 これがたとえば「女子ソフトボール部員に全裸ランニングを強制!」というニュースだったなら、話は分かりやすい。明らかにワイセツ事件である。ランニングだろうがラジオ体操だろうが、いや、たとえ「全裸で入浴」であっても、男の監督がそばで見ていたらマズイと思う。
 しかし、某高校野球部の「全裸ランニング」とは、男の監督と男子部員との間で行われていたことなのだ。まず気になるのは、監督には男子の裸を見て喜ぶ趣味があったのかどうかということだが、それはニュースでは触れられない。テレビ各局のニュースで伝えられていたのは、以下のような内容のみである。

 某高校野球部の元監督が、3年前から「メンタルトレーニングの一環」などと称して部員全員に全裸でランニングをさせていた。同監督は部員の喫煙問題で解任され、その後、部員を殴ったことが問題になり、すでに依願退職している。

 どうです? よくわからん話でしょう? 全裸ランニングが問題なのか、殴ったのが問題なのか、いったい何を伝えようとしているニュースなのか、要点がはっきりしない。以下は私の勝手な想像だが、本来はこういう順序で伝えるべき話ではないのか。

 某高校野球部の監督が部員を殴ってクビになった。その後、保護者の間から「もともと、あの監督は生徒を裸で走らせたりする変な人だった。それを見過ごしていた学校に問題があるんじゃないか」という突き上げが起こり、騒ぎになった。そこで、学校側が釈明会見を開き「メンタルトレーニングの一環ということで全裸ランニングの件は容認していたが、不適切だったと反省している。今後は注意する」という旨を発表した、と。

 つまり、ここで起きたのは「学校の職員指導体制が保護者の不信を招いた」という事件であって、全裸ランニングはその一部にすぎないのではないか。それを「全裸ランニング」そのものが事件であるような報道をするから、わけがわからなくなってしまう。
 私の想像は事実と異なる部分があるかもしれないが、事実を問おうとしているのではなく、中途半端な報道をするなと言いたいのだ。「全裸ランニング事件」という奇抜な印象を与えて報道するなら、それが「どんな全裸ランニングだったか」を掘り下げて伝えないと意味がないんじゃないか。
 一部の報道では「夜間に山中のグラウンドで行われていた」とあったから、全裸ランニングが公然ワイセツにあたるという話ではなさそうだ。ならば監督と生徒との間だけの問題である。となると、先にも書いたように、性的虐待だったのか? 性とは関係なく心理的虐待か? では、生徒は全裸ランニングをさせられることでどれだけ心が傷ついていたのか? 監督と生徒の間にはどんな心理的支配が成立していたのか? ……等々が問われるところである。いったいどういう状況だったのだ。
 たとえば若い頃の村野武範か中村雅俊みたいな熱血教師が、海辺でフリチンになって走り出し、「お前たちも裸であの夕陽に向かって走ってみろ!」と叫び、生徒たちも「よーし!」とフリチンになって「先生ーっ!」と後を追って走っていった……という光景だったら、咎め立てするようなことではないだろう。いや、現実にそんなドラマみたいな教師と生徒たちがいたら、それこそ事件かもしれないが。

 今年は高校野球部の不祥事が相次いだ。この全裸ランニングのニュースも、「一連の不祥事」の流れに乗っかって、よく内容を吟味もされずに流されたにすぎないのだと思う。ひとつ大きな事件があれば、似たような事件を探してきて「構造的腐敗」という大問題に仕立て上げるのはマスコミのお約束だ。
 教育と体罰の問題はよく議論される。「愛のムチは必要だ!」「いや、暴力は絶対にダメ!」「いやいや、俺は昔、殴ってくれた教師に感謝してる!」「殴らなくても、本当に立派な教師は生徒から尊敬されます!」とヒステリックな討論を見せるのも、これまたテレビのお約束なのだが、なんだかなぁと思う。ケースバイケースじゃないのか。人が人を育てる場というのは、原理原則だけでは語れないんじゃないのか。
 ……そういうふうに考えるのが人情だから、70年代の村野武範や中村雅俊の時代から、最近の『ごくせん』に至るまで、型破り教師の学園ドラマはヒットするのだ。現実の型破り教師は悪い方へ逸脱している人が多いのだとしても。


 ……ということで話を終わろうかと思ったが、「クラッシュシネマクラブ」というお題を与えられている以上、やっぱり映画のことも書かないとまずいッスね。ここまでの話に関連して、『がんばれ!ベアーズ』のことでも書いておこう。
 ご存じと思うが、少年野球チームを題材にした70年代の名画だ。最近、『がんばれ!ベアーズ ニューシーズン』としてリメイクされたのだが、倉敷では上映されただろうか? オリジナル版を変にいじらず、実に正攻法なリメイクだったので、オリジナル版が好きな人にはおすすめできる。
 70年代版も、リメイク版も、『がんばれ!ベアーズ』が素晴らしいのは、ここに出てくる少年野球チームのコーチが少しも正しい人間ではないことだ。
 元はマイナーリーグの選手だったが挫折したダメ男。今はアル中気味で、少年チームのコーチを引き受けてもベンチで酒ばかり飲んでいる。まことに教育的に不適切である。
 まあ、ここまでは「型破り先生」の王道パターンなのだが、これがお約束通りに「常識的にはコーチ失格に見えるが、実は本当に大切なことを教えてくれる素晴らしいコーチだった……」という方向へは行かないところがいい。
 どうせ俺たちなんかダメなんだ、と負け犬根性がしみついている選手たちに「バカヤロー! 負けて悔しいと思え!」とハッパをかけてヤル気を出させていくまでは「実は彼こそ正しいコーチ」に見えるものの、彼は勝つことだけにこだわりすぎて、大事な何かを見落としていることが後半で露わになってくる。やっぱりコーチも間違っていたのだ。ここには正義のヒーローはいない。欠点だらけの大人と子供が、野球を通してほんの少しだけ自分のマシな部分を発見するという、実にイイ話である。

 また、『がんばれ!ベアーズ』(新・旧両方)が他の多くの野球映画と異なるのは「野球は素晴らしいスポーツだ」とは少しも主張しないことだ。ただ普通に人々の生活の中に野球があって、普通の毎日の中にちょっとイイ瞬間がある。そういう普通の人生を肯定した映画である。
 リメイク版の監督リチャード・リンクレイターは、前作『スクール・オブ・ロック』の好評が今回の起用につながったのだろう。『スクール・オブ・ロック』はロック馬鹿の男が仕事欲しさに代用教員になりすまし、学校のカリキュラムを無視して子供たちにロックを教えるという映画だったが、ロックにこだわりすぎたためにどうもスッキリしない。ロック、ロックと主人公が主張し続けるので、反抗の音楽であるロックを子供たちに強制的に「教育」することの矛盾や、大人の責任を学んだ後に主人公のロック観がどう変化したのかを問いたくなってしまう。「ロックは素晴らしい」などと言わず、ただ「たまたまそこにロックがあった」だけでよかったのではないか。ロックがどうというよりも、そこに教師と生徒がいて、何かに気づいたということこそがドラマのキモなのだから。
 そもそもリンクレイターはドラマチックになることを嫌う映画監督である。初期の『恋人までの距離(ディスタンス)』は、列車の中で隣り合わせになった男女が話をするうちに互いに惹かれ合い、しかし、恋人になる手前で映画が終わるという、反カタルシス映画だった。まあ、そういう「作り手としての照れ」には共感するところもある。
『がんばれ!ベアーズ』をほとんどオリジナル版そのままにリメイクしたリンクレイターは、いちばん感動的な場面(凡フライさえ捕れないダメダメな子が、初めてフライを捕球するという、野球がヘタな人間には涙なしでは見られない名場面)だけはオリジナルどおりにせず、変にヒネッてある。そこは照れずにフリチンで走ろうよ、リンクレイター。

 ※画像はオリジナル版『がんばれ!ベアーズ』公開時の劇場パンフ。