Krash Cinema Blog

ライター。元・日本美女選別家協会会員。
1963年倉敷(水島)生まれ。
コチラでも映画の話を書いたりしてます。

1/7 オヤジの一分

 前回書いたように、当たり前のことを若い人に伝えていかなければという勝手な使命感が私にはある。男が40過ぎると、そういう使命感がわいてくるんです、腹の中の寄生虫のように。
 というわけで、オヤジの小言です。今回言いたいのは、「キムタクって演技ヘタじゃん。だってワンパターンじゃん。どの役やっても同じじゃん」と若い人がよく言うが、それは間違ってるよという小言だ。

「役者がいつも同じキャラに見える」ことと「演技の上手いヘタ」は関係ない。スター役者はいつも同じでいいのだ。高倉健はいつでも健さんだし、イーストウッドはつねにイーストウッドである。健さんらしくない健さんや、まるでイーストウッドに見えないイーストウッドを、誰が見たいと思いますか? キムタクはいつ見てもキムタクだからこそ、キムタクの価値がある。それがスターというものだ。

 それに対して「ロバート・デ・ニーロは違う」と言うのも間違いである。デ・ニーロは役によって体重を大幅に増減したり、髪の毛を抜いたり、役を演じることにかけて自分の身体的犠牲をいとわない。その真摯な役作りの姿勢について「デ・ニーロ・アプローチ」という言葉も生まれた。
 しかし、「デ・ニーロ・アプローチ」を行うことによって、デ・ニーロがデ・ニーロに見えないほど変身してしまったことはないのだ。デ・ニーロは太ろうがハゲになろうが、一目見ただけでデ・ニーロだと分かる。役によって身振りや喋り方や表情を多少変えてはいるものの、「デ・ニーロらしさ」の枠を壊してしまうほどの変化ではない。あくまで「デ・ニーロ」内での変化だ。その程度の演じ分けなら、キムタクだってきちんとやっている。
 だから、デ・ニーロを「カメレオン俳優」と呼ぶのは間違っている。デ・ニーロはあくまでスター役者である。

 本当の意味でカメレオン俳優と呼ぶべき人には、たとえばゲイリー・オールドマンがいる。彼が出ている映画は、エンドクレジットを見て初めて「あっ、あれはゲイリー・オールドマンだったのか!」と気づくことが多い。見事に別人になりすましているのだ。非常に優秀なカメレオン俳優である。
 しかし、だからこそゲイリー・オールドマンはスターにはなれない。「ああ、この役はぜひゲイリー・オールドマンに演じてほしいなあ」という役どころもないし、彼が出てきて「よっ、待ってましたオールドマン!」と声をかけたくなる場面もない(ま、「麻薬中毒者の役」に関してだけはゲイリー・オールドマンの得意ワザ的なイメージはあるのだが、それ以外の仕事の方が多いわけだし)。

 スター役者、あるいはタイプキャストと呼ばれるような固定的イメージの俳優になるか、七変化的なカメレオン俳優になるかは、演技者としての生き方の方向の違いである。どちらが演技力があるかという技量の差の問題ではない。
 ちょっと考えてみりゃ分かる話だ。「イチローのバッティングは内野安打ばかりでつまらない」と言う人は多いが、「イチローは内野安打ばかり打つから野球がヘタだ」とは誰も言わんでしょ。
 物は言いようである。というか、言い方こそが大切だ。キムタクがキムタクらしく芝居してるのを見て鼻につくと言いたいなら、ただ「キムタクの芝居が嫌い」と言えば済むことなのだ。それをわざわざ「芝居がヘタだ」などと言い切るオマエに芝居の何が分かっとるんだ、オマエはアクターズスタジオの学長か、という話である。
 どうしても「キムタクは芝居がヘタだ」と言いたいなら、では芝居が上手いとはどういうことなのかを説明しなけりゃならない。「いつも同じに見えるからヘタ」なんて短絡的な演技論じゃあオジサンは納得せんよ……と、そういう小言でした。

 私自身がキムタクをどう評価するかと問われると、正直よく分からない。特にファンではない私だが、ついついキムタクのドラマや映画を見てしまうのは、やっぱり彼が役者の華を持っているからなんだろうとは思う。ただ、キムタクのあの独特の「ぶっきらぼうでナチュラルなセリフ回し」と「過剰にギクシャクした間の取り方」が示すキャラクターが、「自意識がせわしなく動き回ってる人」に見えることは私も感じる。それが鼻につくと言いたい人たちの気持ちも分かる。
 いい演技とは何かという芸術論に正解はない。演技の善し悪しはおいといて、とりあえずキムタクがキムタクであることが、キムタクの個性である。私としては、その個性が本当に活かされる役にキムタクはまだ出会えていないような気がするのだ。「いつもキムタク」であることより、むしろ「これぞキムタク」な役をまだやりきっていないことがキムタクの芸歴の課題だと思うのだが、どうだろう。……どうだろうって何だよオイ。ちょと待てよ!(ホリ風)