もう10年ぐらい前、私は東京・中野区に住んでいた。中野には有名な「中野ブロードウェイ」がある。東京ローカルの話で申し訳ないが、サブカル好きな人だったら、中野ブロードウェイの名は全国的に知られてるんじゃないだろうか。
中野ブロードウェイは中野の繁華街にそびえ立つビルの名前である。70年代に建てられ、オープン当初は「住宅棟とショッピングモールを併せ持つ最新の集合住宅」として、今で言えば六本木ヒルズみたいに「ナウ」な場所だったらしい。なにしろ沢田研二=ジュリーや、青島幸男元都知事も入居してたそうだ(青島さんは今も住んでるのかもしれない)。しかし、私が東京に出てきた80年代には、ブロードウェイもすっかり時代遅れの陳腐化した場所となり、テナント部分には空きスペースが目立つようになっていた。
ところが、店舗スペースがやたらと細かく区切られたブロードウェーにはヤミ市みたいな怪しい雰囲気があり、次第に中央線沿線のサブカル系な人たちを吸い寄せ、マニアックな店が次々と増えていった。最初は1店だけだった古本屋「まんだらけ」がアレよアレよという間にブロードウェイの中にオタク向け店舗を増殖させ、他の地区に進出するまでになった。アニメやフィギュアの「萌え」系だけでなく、ガロ系マンガの店、古い映画ポスター・チラシの専門店、アメリカ雑貨やストリートファッションの店、ロレックス中心の高級中古時計店、プロ用のAV機器中古店、韓流ブーム以前からアジアのCDやビデオを扱っていた店などなど、とにかく「マニアック」な店がひしめき合う「オタクの殿堂」として、90年代頃のブロードウェイは有名になった。私は駅までの通り道にあるブロードウェイに立ち寄り、安い映画の中古レーザーディスクを物色するのが日課だった。
前置きが長くなったが、その頃の話だ。いつものようにブロードウェイをブラブラしていると、血相を変えた警察官が私を追い越して駆けていく。ただならぬ雰囲気である。何事かと思って見ていると、警官はすぐ近くのアクセサリーショップに入っていった。
警官はショップの店員に言った。
「カスタネットを持って走ってる男がいる、と通報されたのは、あなたですか」
店のおねーさんが困惑した顔で答える。
「カスタネットじゃないですよ。カッターナイフですよ!」
警官の聞き間違えだった。
しかし、警官は「カスタネット」だと思っていたわけで、「カスタネットを持って走ってる男がいる」という通報でも警察が来てくれるのか、と私は驚いた。さすが日本の警察は素晴らしい、というか、青島都知事が住んでるから特別に警戒厳重だったのかもしれない。
とにかく「ブロードウェイは深いなあ」と思った。私は「カスタネットを持って走る男」の姿を思い浮かべて、一人で笑いながらブロードウェイを歩いていた。
世の中、ヘンな人がいる。通りすがりの女性にカッターナイフで斬りつけたり、女子高生のスカートの中を鏡で覗いたり、男子小学生の上履きを盗んで集めてみたり、どうしようもない衝動に駆られてしまう人がいる。まあ、人間誰しも変態な性癖を抱えて生きているわけだが、その欲望にストレートに従うと犯罪者になってしまう。自分の中の「ムラムラ」を何とか他人に許される方向に変換して発散することはできないだろうか。
「ああ、カッターナイフで誰かを斬りつけたい」という自分の中の悪魔の声を、「ああ、カスタネットを誰かに聴かせたい!」と、自分で聞き間違えてみたらどうだろうか。
「すいません、ムシャクシャしたので、カスタネットを持って走ってしまいました……」
そういう人なら、たまに出会っても構わないと思う。