カフェという言葉がどうも好きじゃない。そのオシャレっぽさが気恥ずかしいのかもしれない。たとえば『バグダッド・カフェ』だ。どうしようもなく惨めな連中の吹きだまりになってる場末のモーテルの話なのに、これがオシャレさん映画になっちゃって「素敵だわぁ、バグダッド・カフェに行ってみたいわぁ」みたいなことになってるんだもんなあ。
カフェってなんだい気取るんじゃねえよ、キッチャテンのことだろ、とフーテンの寅さんなら言うだろう。
明治だか大正の日本に喫茶店ができはじめた頃、それはハイカラで素敵なトレンディースポットだったに違いなく、やっぱり「カフェ」と呼ばれていたらしい。しかし、僕らが育った昭和40年代頃にもなると、すでに喫茶店というのは日常的にありふれた場所になり果てていた。
『前略おふくろ様』で桃井かおりが何かにつけてはショーケンを呼び出し、やっかいごとを持ちかけては「海ちゃん、オレ困るっスよ」とショーケンをオタオタさせながら、桃井かおりはノンキな顔して「アメリカのコーシーちょうだい」とアメリカンコーヒーを注文する。そんなコント的日常が繰り広げられるユルユルに弛緩した空間こそが、僕らの想う喫茶店である。
『男はつらいよ 寅次郎恋歌』で、池内淳子扮する子連れの未亡人に恋した寅さんは、彼女が柴又帝釈天の横手に開いた喫茶店に入りびたる。これがまたオシャレのオの字もつかないような店で、池内淳子がコーヒーのドリッパーにお湯を注ぐのは、お決まりのホーローのポットですらなく、大きなアルミのヤカンだった。タコ社長の工場の「労働者諸君」がドヤドヤと押しかけ、カッコつけた寅さんが「おう、さくら。この連中の分も払っといてやんな」と、五百円しか入っていない財布をカウンターに置いていく。正しいキッチャテンの風景である。
ちなみに、この『寅次郎恋歌』は博(前田吟)の郷里として岡山県高梁市にロケした作品で、当時まだ現役だった伯備線のSL(蒸気機関車)の雄姿を見ることができる。もう本当にSL末期の頃で、小学校の低学年だった僕らが学校帰りに、倉敷の平田あたりの高架をSLが走っているのを目にすると、むしろ非日常な感動を覚えたものだ。かつてSLが惜しまれつつ消えていったように、今、「昔ながらのごく当たり前の喫茶店」が日本中から消えつつある。
『キッズ・リターン』は北野武作品の中でいちばん好きな映画だ。天才たけしの気負いがないところがいい。「どうだ、オレの映画は普通じゃねえぞ」とセオリー外しばかりやってみせる北野映画にはめずらしく、奇をてらわず、ありきたりの青春映画のパターンを平気でなぞっているのがいい。まあ、巨匠としては「あえて普通の話を語ってやったぜ」という一回転ヒネリなのだろうとは思うけれど。
金子賢と安藤政信の二人を軸にしながら多数の青春群像を描いていく映画の中で、登場人物たちが交錯する場所として用意されていたのが喫茶店だ。「カトレア」という名の、かつてどこにでもあったような喫茶店である。合皮張りの椅子と正方形のテーブル。薄暗く、とりあえず何もかも焦げ茶色に統一してみましたという、センスもへったくれもない内装。同じような喫茶店がどこにでもあったが、チェーン店ではない。映画では丘みつ子扮するママの個人経営だ。
『キッズ・リターン』は平成の映画だが時代設定はまったく不明で、デタラメに昭和的な情景が描かれる(ついでに時間経過の描写もかなり乱暴で観客を戸惑わせる。さすがに北野流セオリー外しの術が完全に封印はされていない)。いつとも知れぬ時代の喫茶店で、金子賢と安藤政信はダラダラと無意味な日常を過ごす。喫茶店でドラマチックな出来事など起きない。金子たちの同級生の一人が店の娘に惚れているが、この恋だって少しもドラマチックにはならない。ただ彼女にコーヒーを運んでもらい、「映画に行きませんか」と誘うのを彼女に無視され続けるだけだ。
ありきたりの喫茶店には、ありきたりの退屈な時間が流れる。退屈な時間が実は青春の大部分を占めている。退屈から抜け出すために金子はヤクザになり、安藤はボクサーになるが、あっけなく敗れて元の日常へ帰ってくる。美しくも輝しくもなく、せつないのが青春という時間なのだ。ありきたりの冴えない喫茶店こそが青春のリアルにふさわしい。青春の場所がホウ・シャオシェンの『珈琲時光』みたいに、柔らかな光に包まれた素敵なお店に見えてしまっちゃいけないのだ、と思う。
犯人捜しはよろしくない。罪を憎んで人を憎まずである。たとえば年金問題について「こんな事態を招いたのは誰の責任だ!」と犯人を吊し上げても、何も事態は解決しない。そんなことより年金システムの再構築に向けて知恵を絞ることこそが急務だ、という意見はまったくの正論である。それでも人々は、問題そのものよりも犯人捜しに夢中になってしまう。今も日本中の人たちが「毒入りギョーザ事件」の犯人捜しに夢中である。テレビで得た情報を材料に、ああでもないこうでもないと事件を推理している。国際問題を孕んだ事件なので、うかつなことは言わない方がいいのだが、素人探偵のヘッポコ推理ごっこは後を絶たない。
どうも人間というのは、犯罪にドキドキワクワクしてしまう生き物なのである。犯罪者を名指しして吊し上げてやりたいと思い、さらには、自分が犯罪者になってみたいとさえ夢想する。そのいやらしい欲望を合法的かつ安全に満たしてくれる装置として、ミステリー小説やミステリー映画は人気があるわけだ。
「探偵ゲーム」という子どもの遊びをご存じだろうか。地方によって呼び名が違うかもしれないが、キャンプなどのレクレーションとして定番のゲームだ。
床の上にみんなが輪になって座り、トランプのカードを配る。あらかじめ3枚のカード(たとえばスペードのエースとジャック、ジョーカーなど)を「犯人」「共犯者」「探偵」のカードと決めておき、それを引いた人が犯人役、共犯者役、探偵役となる。カードが配られたら、お互いに見られないように自分だけで確認し、みんな目を閉じて土下座のような格好で頭を伏せる。
「犯人」と「共犯者」だけがこっそり立ち上がって犯行を始める。みんなの輪の中央には丸めた新聞紙か何かが置いてあって、犯人はそれを持って誰かの頭をポカリと殴るというのが犯行の内容である。共犯者は犯人が誰なのかを分かりにくくするため、歩き回って音を立てたりなどの偽装工作をする。
犯人が誰かを殴ると、殴られた被害者が大きな声でゆっくりと10か20数え、その間に犯人と共犯者は元いた場所へ戻って何食わぬ顔で座る。被害者がカウントし終わったところで全員が顔を上げる。
ここから探偵役が名乗り出て、尋問を始める。「あなたの隣の人が動く気配はありましたか?」「音はどちらの方から聞こえましたか?」などの質問を各人に行い、犯人と共犯者だけは嘘をついてもいいが、他の人は正直に答えなければいけない。質問を繰り返して、探偵が犯人と共犯者を当てるというゲームである。
やってみれば……いや、やらなくても分かるだろうが、このゲームで楽しいのは、探偵と犯人と共犯者の3人だけだ。みんな、どれかの役が回ってくることを待ち望んでゲームに参加する。傍観者でいるより事件に参加したいのが人情である。特に楽しいのは犯人か共犯者役になった時だ。見られないのをいいことに女子の脇腹をつついてみたり、女子の頭の上でチンポを出してみたりして、犯人と共犯者は必死に笑いをこらえるのである。
今ではベストセラー作家としておなじみの、リリー・フランキーというふざけた名を名乗る友人がいる。私とリリーがまだ学生だった頃、男女20人くらいの大人数でキャンプに出かけたことがあった。コテージやバンガローというより仮設住宅という表現が似つかわしい掘っ立て小屋にみんなでザコ寝して泊まり、そこでこの「探偵ゲーム」をやった。「王様ゲーム」が流行る前の時代だ。何とも健全なキャンプですなあ。
何ゲームか繰り返した後、リリーに犯人役、私に共犯者役のカードが回ってきた。こういう時、何かバカなことをやらなければ気がすまないのがリリーという男である。彼は小屋の入り口の土間の方まで歩いていき、やおらパンツをずらすと、土間の上に水平に渡されている梁に両手両足をかけ、ナマケモノのような格好でぶら下がった。私は無言でリリーの企みを了解した。このままゲームの「犯行」は行わず、みんなが「どうしたんだよ」と顔を上げた時、ケツを出したリリーが梁にぶら下がっているので大爆笑……という狙いだ。
しかし世の中、想定外のことが起きるものである。リリーが梁にぶら下がった瞬間、その古い木の梁は「バキッ!」と大きな音を立て、真っ二つに折れてしまったのだ。犯人リリーは「ドスッ!」と鈍い音を立てて土間に落下し、「ウウー……」と呻いたまま立ち上がれない。物音に驚いてみんなが顔を上げたが、座敷より低い土間に落ちたリリーの姿は見えない。リリーが空中を自由落下していく一部始終を見守っていたのは、共犯者の私だけだ。何が起きたのか、事情を説明するのにしばらくかかった。
幸いリリーは軽い打撲だけで済み、貧乏学生の私たちは梁を壊したことを小屋の管理者には内緒にして帰った(誠に申し訳なかったが、もう時効のはずである)。爆笑を狙ったはずのリリーは失笑、苦笑、嘲笑と、叱責を浴びることになった。図らずも犯行の共犯者となった私が教訓として学んだのは、完全犯罪は難しいということと、犯罪者には必ず天罰が下るということだった。
エムワンを買った。いや、昨年末のM-1に勝ったのはサンドウィッチマンですけどね。EMOBILEが発売しているモバイル端末エムワン(EM・ONE)を私が買ったのだ。
EM・ONEって何だ? 主な用途はウェブサイトの閲覧とメールの送受信、ワンセグテレビの視聴ということになるんだろう。ジャンル的にはスマートフォンに分類されているが、電話の機能はないという変なマシン。UMPC(ウルトラモバイルPC=すごく小さなパソコン)と捉えた方が正解のようだ。
忙しく飛び回るビジネスマンでもなく、株式情報を24時間チェックする投資家でもない私が、何でそんな端末を? まあ、ああしてこうすりゃこう使える……と、自分なりの裏ワザ的用途とコストパフォーマンスをクレバーに計算した結果、これはなかなか使える道具だと判断したわけなのだが、最終的に購入を決意したのはクレバーではなくバカな理由だ。「やっぱデキる男はモバイルなガジェットを持たなくっちゃ。だって、最近はジェームズ・ボンドもジェイソン・ボーンも、モバイルなデジタル機器を駆使してるじゃん♪」というミーハーなノリである。
『荒野の七人』でスティーブ・マックィーンが言う名セリフがある。敵の首領から「何でお前たちみたいなワルが、こんな貧乏な村の用心棒なんか引き受けたんだ?」と訊かれたマックィーンは言うのだ。「昔、素っ裸でイバラの茂みの中に飛び込んだ男がいた。何でそんなバカなことをしたんだと訊いたら、そいつはこう答えた。『その時は、それでいいと思った』……ってな」
このセリフに激しくシビレた男子である私は、「他人が見ると間違ってるように見えるだろうなあ」という選択の方へ、ついつい惹かれてしまう傾向がある。特に買い物は「こんなバカな物を買っちゃったよ」と言いたいがために買ってしまう癖があるのだ。1年前には「どデカい特製アタッシュケース入りの007シリーズDVD全巻セット」をバカと知りつつ購入して、今では案の定、部屋の中で邪魔になって後悔している。
ま、あえてバカな選択をする男のロマン道という点では、「倉敷から全世界に向かって、少しも儲からないフリーペーパーを発信する」という道を選んだ誰かさんには遠く及ばないのだが。
そのEM・ONEでKrash JapanのHPにアクセスしてみた。Windows Mobile用ブラウザは最新版フラッシュに対応しておらず、Not Availableの表示が出てしまった。しかし、小窓に赤星が出てきたよ。「あなたのお使いのパソコンでは、このコンテンツをご覧になることができません……」とか喋っとるじゃないか。うははははは。初めて見たよ、この画面。
あ、申し遅れましたが、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしく。
「アメコミヒーローの名前はダブル・イニシャルの法則」というのがある。たしか映画『アンブレイカブル』でサミュエル・L・ジャクソンも言ってたと思うけど、クラーク・ケント(スーパーマン)がKK、ピーター・パーカー(スパイダーマン)がPP、マット・マードック(デアデビル)がMMとか……アメコミヒーローの名前は同じアルファベットの繰り返しになってるパターンが多いというトリビアだ(でも、クラーク・ケントは正確にはCKだし、上記3人以外を私は知らないんだけど)。
そこで私もひとつ気づいた。ジェームズ・ボンド、ジェイソン・ボーン、ジャック・バウアーと、有名なスパイ(工作員)はみんな頭文字がJBではないか。「スパイ映画ヒーローの頭文字はJBの法則」を提唱したいと思う。ま、要するにボーンやバウアーの名前が先達のボンドを意識して付けられたにすぎないんだろうし、多くのスパイ映画マニアがとっくに気づいているんだろうし、ちなみに『ミッション・インポッシブル』のイーサン・ハントはJもBもつかない名前ですがね。
今回の話はそれだけ。他に何のオチもないです。それでは皆さんごきげんよう。
と、こんな具合にどうでもいいことならいつでも書けるので、もっと頻繁に更新すればいいものなのだが、それがなかなかできない。なぜかというと、他にやらなきゃいけない仕事がたくさんあるからである。
……なんちゃって、まるで売れっ子ライターみたいな言いぐさをしてしまいました。お詫びして訂正いたします。私の抱えてる仕事なんて大した量じゃありません。以前、テレビで作家・重松清の一日を追う密着ルポを見たことがありますが、重松氏なら私の1カ月分の仕事を半日でこなしてしまうでしょう。
そういうものなのだ。できる人はどんなに多くてもできるし、できない人はどんなに少なくてもできないのだよ、仕事というものは。
やればできるはずなのに、それがどうにもできなくて、「ああ、どうすればできるんだろう」と苦悩しながら、「まずは気を落ち着けるために、とりあえずメシを食おう」「あまり考えすぎると名案が浮かばないから、とりあえず気分転換にテレビでも見よう」「ああ、テレビを見過ぎて、もう俺の頭は使い物にならん。とりあえず一眠りしよう」としているうちに、一日は終わっていく。他人から見ればただダラダラしているだけなのだが、本人としては24時間、仕事への焦燥と格闘して生きているのである。
しかし、私が真剣に苦悩しようがノンキに遊んでようが、仕事が終わらないことに変わりはない。私に仕事を発注した人はただ迷惑するだけである。誠に遺憾です。本当に申し訳ない。
で、そうやって滞らせている仕事があるのに、ここを更新するのはいかがなものかと思うわけですよ。もしもその人がここを見たら、「あいつ、ウチの仕事もしねえでこんなページをせっせと書いてやがって」と思うじゃないか。というわけで、私の更新ペースは遅いのです。
……ていうか、こんなこと書いちゃったら迷惑中の編集者は本当に怒るだろうし、赤星も呆れるだろうなあ。すみません、私が悪いんです。心より深くお詫び申し上げます。反省すべきは反省し、改めるべきは改めていく所存でございます。できるなら、24時間バリバリ原稿を書く有能な男に生まれ変わりたいです。頭文字をJBに改名すればいいのでしょうか。「板東二郎」とか?
『Krash Cinema Club』というタイトルなのに、テレビの話ばかり書いてるなあ。映画見ないでテレビばかり見ているので仕方ないんですけどね。というわけで、またテレビの話。前回のようなことを書くと気分が悪いので、今回はテレビをほめる話です。
最近のテレビで、ちょっといいなと思ったのは江川卓と小林繁が「空白の一日から二十八年」を経て対面するという、あの話題のCMだ。28年前、「亀田事件」なんかよりもずっと深刻な論議をスポーツ界に巻き起こした「江川事件」。それを知ってる世代としての感慨深さも当然あるのだが、それよりもあのCMに心を動かされたのは、久しぶりに真面目なCMを見たなあと思ったからだ。
江川と小林という、ある年齢以上の日本人なら誰もが知る因縁の二人の対面。広告屋さんが仕掛けたわけである。仕掛けではあっても、二人の間に流れる空気は本物だ。CMは演出をできるだけ抑え、その本物の感動を伝えようとしている。映像クリエイターや演出家のセンスを見せるための作品と化してしまったCMではなくて、このCMには本気で伝えたいことがある。「28年の時を経て、江川と小林が会って話をする。それってなかなかいいでしょう?」と、真っ直ぐ伝えている。
ただ残念に思うのは、その感動がうまく商品には繋がっていない気がすることだ。これはお酒のCMなのだが、何のCMか印象に残っていない人が多いのじゃないだろうか。江川と小林の感動的な邂逅を見せ、お酒は人と人の間をつなぐのですというメッセージを伝えようするコンセプトは非常に分かりやすいのだが、なぜか最後の「時を結ぶ 人を結ぶ 酒は黄桜」というコピーにストンと落ちていかない。CMの送り手たちはなるべく上品な伝え方をしようと考えたのか、どうも商品側が控えめに身を引きすぎて、15秒CMのうち10秒が「江川と小林」のドキュメンタリー番組で、残り5秒で「黄桜がお送りしました」と提供コメントを言っているような、妙に遠慮したよそよそしさをもったいないと感じるのだが……。まあともかく、完成度うんぬんはさておき、昨今のテレビで「おっ、なんだかこのCM、本気で言いたいことがあるみたいだから聞いてみようか」という気にさせられるだけで貴重ではあると思う。
江川と小林が巨人阪神のエースだった80年代、消費大国へ向かう日本は広告ブームで、コピーライターやCMディレクターが花形職業となり、若者のカリスマとなった。当時の若者だった私が、CMでいちばんすごいと思ったのは、小泉キョンキョンを起用した武田薬品の「ベンザエースを買ってください。」だった。雰囲気のいい言葉や奇をてらった言い回しに逃げるCMが増え、新鮮味を失った広告コピーを根本から見直し、これを買ってくださいという核心のメッセージに立ち戻った傑作である(後にも先にも一回限りの、究極の反則技コピーでもあるが)。映画は60〜70年代のヌーベルバーグやニューシネマの時代が最も面白かったように、CMはいい意味でも悪い意味でも80年代が最もノリまくっている時代だった。
一年ぐらい前、その「ベンザエースを買ってください。」などで知られるコピーライターの巨匠・中畑貴志さんにお目にかかったことがある。酒の入った席で、知人を介して中畑さんが私たちのテーブルに来て、ちょっと語ってくれたのだ。お酒は思いがけない人と自分を結んでくれる。中畑さんは「ガンガンやりなよ。仕事でも女でも、自分のやりたいことをガンガンやりゃあいいんだよ」と私たちにハッパかけてくれた。40歳過ぎると、そんなことは他人からなかなか言ってもらえない。ひさしぶりに自分が20代の若造の気分になった。熱いのか温かいのか、なんだかよく分からないけれど、やっぱり中畑さんは大きいなあと思った。本物とか本気というものは、やっぱり本物で本気だよね。
赤星が亀田問題について意見してたので釣られちゃおう。まったく同感というか、国民の多くが同じことを感じているのに、少しも反省の色を見せないTBSは正気なのだろうか。
新聞各紙(毎日も含めて)が社説やコラムで「メディアの責任=TBSの責任」を指摘しているし、ワイドショーのコメンテーターもこの話題になると必ず誰かが「メディアにも責任が」と発言する(テリー伊藤をはじめ複数のコメンテーターがTBSの番組内でもはっきりTBSを批判している)。亀田親子は「とりあえず」謝罪したという形をとり、実況を解説した鬼塚氏までブログに反省の言葉を書いたのに、未だにTBSは社として何のコメントも発しない。
ホンネはどうであれ、タテマエをつくろう気すらなさそうなTBSの姿勢は理解に苦しむ。昨夜の『ニュース23』では街頭インタビューで「(亀田問題で)いちばん悪いのは誰だと思いますか?」という問いに「そりゃTBSさんでしょう」と間髪入れず答えた一般人の姿が放送されたが、その後に番組キャスターのコメントは何もなかった。「TBSはこうして批判も採り上げていますよ」というだけで問題をチャラにできると思っているのだろうか。
ここ数日、そろそろ何かオフィシャルの声明があるかもしれないとTBSのホームページをチェックしているのだが、それらしきアクションは何もない。その代わり、「番組制作と放送のルール TBS放送基準」というページを見つけた。放送基準として「TBSは、電波が国民のものであるという原則にもとづき、基本的人権と世論を尊び、公正な立場を守り……」「芸術、スポ−ツおよび娯楽番組は、視聴者に健全な楽しみを提供して、生活内容を豊かにするとともに、それらの育成に努める」などという文言が並んでいるのを見ると、もはやギャグとしか思えない。ちなみに、そのページは視聴者に対してではなく投資家向けIR情報コンテンツの中にあったのだが、視聴者の意見はチャラチャッチャッチャラッチャ〜♪と右から左に受け流す気でも、このまま問題を放っておくと株主も黙っていないんじゃないのか。
しかし、である。仮にTBSが何らかの形で反省コメントを発表したとしても、それはおそらく「実況において亀田びいきととられるアナウンスをした」「亀田親子を過度にヒーローとして祭り上げる番組編成をしてしまった」という点に絞られてしまうだろう。私としてはそれが歯がゆくてたまらない。
亀田うんぬん以前に、最近のスポーツ中継のあり方全体に私は腹が立っているのだ。だってそうでしょ。どうして「世界陸上」を織田裕二の感想とともに見なけりゃいけないのだ(別に織田裕二が嫌いではないが、スポーツ中継には必要ない)。事はTBSだけに限った問題ではなく、世界バレーにジャニーズは要らないし、世界柔道に藤原紀香や加藤晴彦は要らない。関係ないタレントの顔を映すヒマがあったら、選手の表情や会場の生の空気を映し出してほしいのだ(どうしてこんな当たり前の正論でムキにならなければいかんのよ。ああ、自分がバカになっていく……)。ほんの10年ほど前まで、スポーツ中継はこんなことにはなっていなかったはずだ。タレントによる盛り上げは「応援番組」として本編の中継とは別枠で設けられていた。それがいつの間にか中継そのものに介入して観戦を邪魔するようになった。いや、タレント起用の問題だけでなく、実況スタイルや構成など、放送の姿勢がどんどんスポーツ中継の本質を見失ってきていると思う。
「亀田問題の反省」よりも「スポーツ中継を過度にショーアップすることへの根本的な反省」を私は望むのだが、「亀田問題」ひとつ反省できないテレビ局にそれを望んでも到底無理なことは分かっている。視聴率至上主義にどっぷり浸かった民放地上波テレビは、少しでもチャンネルを変えさせないための姑息な演出に腐心することを使命と考え、内容など考える余地もないらしい。言わば、通りすがりの人の目を引くショーウィンドウやネオンサインのような存在である。テレビモニターで何かをじっくり見たい人はBSやDVDでも見ていてくれという姿勢なのだろう。テレビっ子として育った世代としては、まことに悲しい話である。
というわけで、DVDでも見るか。画像は社会派映画監督シドニー・ルメットがテレビ界の腐敗を痛烈に描いた『ネットワーク』のチラシ。ノイローゼになったニュースキャスターがテレビで自殺を予告。やがて彼は「神の声を聞いた」と言い出し、視聴者に向けて説教を始める。局側は常軌を逸した彼の行動を止めず、逆に彼を視聴率のとれる道具としてカリスマ教祖に仕立てていくのだった……。30年前の話題作です。テレビに腹が立った時はこの映画を見るに限る。
先週、テレビでアラン・ドロンin『SMAP×SMAP』を見た。若い視聴者はアラン・ドロンなんて興味ないだろうけど、70年代の日本女性たちのドロン様信仰ときたら、そりゃもう凄いもので、今のブラピとジョニデとイ・ビョンホンを足したようなものだったわけで。『アラン・ドロンのゾロ』なんて、映画の邦題に名前がついちゃったぐらいである(『エノケンのホームラン王』や『ひばりの森の石松』みたいに)。
水島に住んでいた小学校低学年の頃、『レッド・サン』(三船敏郎、アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソンの日仏米3大スター競演のマカロニ西部劇)の大きなポスターが商店街に貼られていた。真っ赤に大書された「レッド・サン」の筆文字と「シネラマ」のロゴに、「何だか凄そうな映画だなー」と思ったのを覚えている(シネラマというのは50〜70年代の大画面映写方式。ややこしいので詳しく解説はしないが、まあ現在のアイマックスみたいに特別に巨大なスクリーンで観る映画と思ってもらえばいい。水島の映画館はもちろんのこと岡山県内にシネラマ上映設備などなかったが、映画会社の作るオフィシャルポスターにはシネラマのロゴが入っていたのだ)。
テレビで日曜洋画劇場を見ると、アラン・ドロン出演のレナウン「ダーバン」のCMが毎週流れた。ドロンの「ダーバン、セレレガンス……」という声が染みついている世代にとって、感慨深いスマスマ出演でがんす。
さて、ビストロSMAPのコーナーに出て、ブイヤベースを注文したドロン様。出てきた料理がオーソドックスなブイヤベースじゃないことに怪訝な顔をして、「これはブイヤベースじゃない」と連発。あのですねドロンさん、あなたに言われなくても今どきの日本人は本格フレンチやイタリアンを食べ慣れております。この番組はあえてセオリーを外した斬新な料理を競う企画なんですよ。……と、キムタクがそう言いたげにカリカリしているのが見どころだった。
ドロンは出された料理の意外性を楽しめばよくて、キムタクは素直に恐縮してりゃいいのに、そうしなかったイケメン二人。テレビ的には予定調和を崩す空気が面白かったのだが、「人の振り見て我が振り直せ」である。ドロンとキムタクの中間の年齢の自分は、偏屈ジジイになるにはまだ早いが、若気の至りが通じる歳もとうに過ぎた。ドンと真っ直ぐいかなけりゃ……と思いつつ、仕事もせずぼんやりテレビを見ていたのだった。
ところで中居くん、あんまり映画好きでもなさそうなのに、ちゃんと『冒険者たち』を見てたりするのね。さすが有名人、見るべき名作映画を教えてくれる人が周りにいるんだなあ。
ごぶさたです。
先月、ニューヨークへヤンキース観戦に行きまして、赤星編集長から「NYの土産話を書け」と言われたのですが、あっという間にNYから帰って一カ月も過ぎ、ヤンキースは早々とポストシーズンマッチから消え去ってしまうわで、今さら書く気もしない感じになっております。
リリー・フランキーと小野瀬雅生(クレイジーケンバンド)と私のNY野球観戦の模様は、発売中の雑誌「en-taxi」で巻頭オールカラー10ページに渡って掲載されておりますので、お近くの書店で見かけたら手にとって見てくださいませませ。
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昔、『伝七捕物帳』という時代劇があった。高田浩吉の主演で50年代に映画、60年代にテレビの人気シリーズだったらしいが、私が知っているのは70年代に中村梅之助が主演したテレビドラマシリーズだ。その中で忘れられないエピソードがある。佐野浅夫(三代目『水戸黄門』でおなじみ)扮する贋作彫り師の話だった。名工の名を騙って贋作の仏像を彫って売りさばく佐野浅夫。その悪事が伝七親分に感づかれるのだが、いよいよ捕まりそうになっても佐野浅夫はヤバい仏像彫りをやめない。彫っているうちに仏の心に魅入られてしまい、どうしてもその仏像を完成させるまでやめられなかったのだ。涙ながらにそう語り、潔くお縄を頂戴しようとする佐野浅夫に、伝七親分は「あんたは本物の彫り師になったんだよ」と諭すのだった……という人情話である。
クエンティン・タランティーノの新作『デス・プルーフ in グラインドハウス』を見て、私はなぜか『伝七捕物帳』のその話を思い出していた。いや、この映画は日本の時代劇とはまったく関係ない。タランティーノが70年代B級アメリカ映画へのオマージュで撮った作品だ。
正直、あまり気乗りはしなかった。タランティーノと同じ1963年生まれの私(ちなみに、本誌編集長も同い年)としては、彼の趣味は分かりすぎるほど分かる。しかし、パロディやオマージュというのは虚しいものだ。酒場で同年代の映画好き野郎と行き会って、「あれ見たか?」「これ知ってるか?」のオタク自慢大会をやらかしてしまった後というのは、たまらなく虚しい。タランティーノの「これはあの映画からの引用だぜ」「こういうの好きだろ?」という目くばせばかりの映画を見せられたら嫌だなあと思ったのだ。
「最近の映画はCGばかりでつまらねえ。70年代のカーチェイス映画は良かったよなあ。昔はスタントマンが命がけで本物のクルマをぶっ飛ばしてた。ああいう映画が見たいよなあ」……というタランティーノの企画コンセプトに共感はする。ああクエンティン、お前さんの言うとおりだぜ。俺も『バニシング・ ポイント』や『ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー』や『悪魔の追跡』が大好きだぜ。
企画の狙いに共感したからといって、結果として仕上がった作品に感動できるかどうかは分からない。それは別問題だ。しかし、『デス・プルーフ in グラインドハウス』は見事に感動を与えてくれたのである。この映画のわざと狙った安っぽさやデタラメさとか、タランティーノの趣味の部分についてはどうでもいい。とにかくタランティーノはクライマックスのカーチェイスシーンを本気で撮っている。70年代カースタントのスタイルをただなぞるだけでなく、元ネタを超える最高にイカレたカーアクションを、マジで必死に撮っている。その心意気が生んだ素晴らしい結果に、私はモーレツに感動したのだ。つまり、タランティーノは仏に魂をこめたのである。本物の感動にウンチクは要らない。
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実は私が構成を担当した本なので、ぶっちゃけ手前ミソの宣伝ではありますが、いい話なのでぜひ読んでください。
アントニオ猪木の物まねでおなじみの芸人・春一番の本です。
2005年、春一番は原因不明の病に倒れ、死の淵をさまよいました。
医者も見放した絶望状態の春一番を救ったのは、彼が生涯愛し続けるヒーロー、アントニオ猪木でした。病状を聞きつけた猪木さんが春一番の病室を見舞ったとたん、彼は奇跡の回復を果たしたのです。
ウソのようなホントの話。
心の中に誰かヒーローを持っている人なら、きっと泣ける本だと思います。