新・不定点観測

赤星豊

vol.386 3つの坂

 人生には3つの坂がある───ひとつめの坂が上り坂、ふたつめが下り坂、そして3つめを<まさか>という。結婚式の定番的スピーチらしいが、初めて聞いたのはBRUTUSの番長の結婚式だった(このスピーチをしたのが、あろうことか新郎である番長でした。さすが番長!)。しかし、本当にあるのだ、人生には<まさか>というのが。


 本日夕方、場所はマルナカ。いつものように買い物カゴを手にレジに並んでいた。と、後ろから声をかけられた。
「あれ、赤星さん?」
 後ろに、よく知った顔があった。50歳ぐらいのすっぴんの女性。
「あれえ、どうも!」
 よく知った顔であるのに名前が出てこない。名前が出てこないだけじゃなく、どこの誰かもわからない。このオバサン、どこで会ってたっけ?
「いまもあそこの上でやってるの?」
「いや、引っ越したんですよ。いまはあそこの近くの大ダコ(元たこ焼き屋)の近所に倉庫を借りて、そこで仕事してます」
 これだけの会話では、この女性がどこの誰で、ぼくのことをどれだけ知ってるのかはかれない。はかれないから会話も膨らまない。でも、レジの順番はもうすぐだ。会話はちょうど終わってるし、このまま「じゃあ、また!」とばっくれればいい───ところが、そこで3つめの坂<まさか>がやってきた。なんと、レジがダウンしてしまったのだ。隣のも、そのまた隣のも。7、8台はあるレジがすべて同時で。
「いやあ、こんなことってあるのねえ」
「ぼくもいままで見たことないです」
 と、終わっていたはずの会話がまた始まった。ダメだ、なんか言わなきゃいけないタイミングだ。あたりさわりのないヤツをひとつ。
「今日は夕飯の買い物ですか?」
 言い終わらないうちに絶望感に襲われた。こんな時間に、しかもこんな普通のスーパーで夕飯の買い物以外になにがある?
「いや、うちの娘がね、今日初めて彼氏を家に連れてくるのよ」
 あにはからんや、いい感じに話が膨らみそうだ。
「それで筑前煮を作りたいっていうから、その買い物をね」
「筑前煮って、そりゃまた渋いですね」
 と会話をつづけながらレジの復旧具合を横目でちらちら見ているんだけど、いっこうに復旧しそうにない。そのうち会話も途切れ、何度目かの沈黙。このひと、ぼくのことをどこまで知ってるんだ? もしかしたら、Krash japanの「ク」の字も知らないかもしれなかったりして。
「あの雑誌はいま何号まで?」
「は、はい、9号が最近出ました」
「じゃあ、あと1号ね」
 知り尽くしてるよ、このオバサン! もしかしたら、シチズンパートナーシップで協賛してくれてる誰かかあ? そう思うと、ぼくの言葉は絶対失礼がないよう、さらに丁寧になっていった。
 と、あるときこのお方、思わぬ人の名前を口にした。
「うちのオカ店長もねえ……」
 オカ店長? オカ店長……オカ店長。和菓子屋のオカ、高校のときから一緒に遊んでいるあのオカだ。このひと……和菓子屋の店員のAさんだ! そりゃないよ。Aさんにはほとんどタメ口だったのだ。なのにいまはバカがつくほど丁寧な言葉づかい。こりゃバレバレだ。店で会うときとのあまりの態度の違いに、「赤星さん、わたしのことがわかってないかも?」とわざとオカの名前を出したに違いない。またまたやってしまった、このわたし。
 それにしてもAさん、店で化粧しているときと違いすぎるぞ。ぼくとそんなに歳が変わらないと思っていたんだけど(だからタメ口だったわけで)。
 レジが復旧するのにきっかり20分かかった。もうぐったりだ。レジを終えて、Aさんに「じゃあ!」と声をかけるとそそくさとその場を後にした。その頃にはレジに向かって後ろが見えないぐらいの列ができてた。そんな<まさか>の出来事でした。