生まれてこのかた「死」について深く考えたことがない。いくら考えたって同じだからだ。死んだらどうなるか、たぶん無になるんだろう。もしかしたら無にならないかもしれない。魂は永遠に生き続けて、輪廻転生、また現世にまったく違う人として生まれ変わるかもしれない。ずいぶん昔に『オードリー・ローズ』を見て、「そんなこともあるかもしらん」と思った。まあ、いくら考えても結論は出まい。あの世があってもなくても、生まれ変わることができてもできなくてもあんまり気にしない。
「死」について深く考えないけど、「死に方」についてはたまに考えたりする。どんな死に方がいいかというのじゃなく、どんな死に方がイヤかをだ。ぼくの死に方のワーストワンは、ダントツで棺おけの生き埋め。ふと目が覚めると、目を開けたのにまわりはまっ暗。カラダを起こそうとすると、いきなり頭を板にぶつける。わけがわからず手を伸ばすと、目の前にがっしりとした壁がある。状況を把握しようと、ポケットからライターを取り出し、火をつける。すると、自分が小さな箱に閉じ込められていることがわかる。目の前の板を叩くと、板はびくともせず、板の隙間からぱらぱらと土が落ちてくる。膝で思いっきり蹴り上げても同じ。閉じ込められた棺おけのなか、ただ死を待つのみ───。
───気が狂うね、1分で狂う。結局、狭いところが大の苦手なのだ。エレベーターなんか、日々命がけで乗ってる。これまで2度閉じ込められたことがある。最初はロシアノイルクーツクのホテル。3人も乗れば満杯のような小さなエレベーター、ガクンと揺れて止まった。すぐに視界がうっすら白んできて、息が苦しくなり、思わずドアをガンガン蹴りまくった。一緒に乗ってたカメラマンのヨッシーは、ぼくが冗談でやってると思ったらしい。2度目はロンドンの友達のアパートメント。これもまた小さなエレベーターだったが、一緒に女性が乗ってたのでかろうじて自分を抑えることができた(いやあ、見栄っ張りなもんで)。2回ともせいぜい2、3分止まっただけだから助かった。今年のシンドラー社製のエレベーターの事件なんか、記事を読んでるだけで苦しくなったもんだ。
なんで自分がそうなのか、はっきりと把握していない。押入れとかに閉じ込められたトラウマがあるわけでもないのだ。が、なんとなくわかる。狭い空間に閉じ込められるというのは、つまりガッチリとらえられるということ。自由を奪われるということだ。
最近、よく夜に海に行く。編集室を出て、競艇場の駐車場を抜けて堤防に出る。何が見えるわけじゃない。ただ対岸の明かりがぽつぽつと。何より風が気持ちいい。波の音が心地いい。帰りには、だだっ広い競艇場の駐車場の真ん中に立ち止まって星を見る。広大な敷地にぽつんとひとり、まわりには誰もいない。自然とつながってる気がする。生きてるって感じがする。いわずもがな、最高の気分だ。