新・不定点観測

赤星豊

不定点観測:vol.62 倉敷(3)

062.jpg 2月21日、火曜日。てっきり午後2時だと思っていた。岡山県人なら知らない人はいない、パンの「キムラヤ」への初営業。「さて、何着て行こうか」と考えながら、何気なくスケジュール帳を見てみた。「13時 キムラヤ」。あれ、1時間違っとるがな。時計を見る。12時25分。キムラヤまでの車での所要時間、推定30分。にわかに青ざめて我を見る。ヒゲ、剃ってない。歯、磨いてない。服、そのままお布団に直行できる。その瞬間からすべてが30倍速の猛スピードだ。ヒゲを剃って歯を磨いて髪を乾かして2階に上がって服を着て靴下を履いて腕時計を合わせてバッグに書類をつめて階段を駆け下りて車のエンジンをかけて、またまた2階に駆け上ってKJの見本誌とデジカメをバッグに入れて階段を駆け下りる。その間、わずか5分。玄関で靴を履きながらオトンに道順を確かめる。うちのオトンは10年近くタクシーに乗っていたので、ぼくよりもはるかに市内の道に詳しいのだ。
「高速を早島で降りてバイパスをマスカット球場の方へ左折して旧2号に出たら右折して岡山方面じゃ!」
 なぜかオトンの返事も30倍速だ。指示も相変わらず的確。さすがは……ん? はて、キムラヤは旧2号を左折して倉敷方面のような気も。
「いいや絶対間違いねえ、岡山方面じゃ!」
 旧2号を目の前にして時計はちょうど午後1時を指していた。右折か、左折か。これで間違ったら、大切な初営業に大きく影響しかねない。どっちだ? ウインカーを右へ。ぼくはオトンを信じて右折したのだった。

 それから5分以上走ったと思う。走れども走れども、キムラヤの工場は見えてこない。不安は最高潮に達し、ぼくは警察につかまるのも覚悟して「スプートニク」の香川さんに電話して確認した。旧2号を右折して岡山に向かってるんですけどね、わたし。
「いや、左折ですよ。倉敷方面ですよ」
 香川さんの言葉が終わらないうちに、左手に「岡山市」の看板を見つけた。そこから先は岡山市内。キムラヤの工場は倉敷の中庄にある。動かぬ証拠をつきつけられた瞬間、ぼくは狂ったようにUターンした。Uターンしながら、「オトン! なにが『絶対間違いねえ』じゃあ!」と、これまた狂ったように心のなかで叫んでいた。

 今日1日は、この一件を除いては、至極穏やかな日だった。15分遅れで行ったキムラヤはわりと感触がよかった。それから岡山のタオルの事務所に行って『ポイズン』の校正をピックアップ。帰り道の児島線でのドライブは、暖かな陽がなんとも心地よかった。帰りに「Flag Staff」に寄ってファンタ・グレープを飲み、ついでに同級生の丸山クンが監督している防波堤の建設現場をのぞいて、ジョージア・コーヒーをご馳走になった。岡山も倉敷も児島も、今日は1日、小春日和だった。
 夕食の買い物をして家に帰ると、オトンが開口一番、「やっぱり右じゃったろうが?」。もう右でも左でもどっちでもいい。そもそも、時間を間違えてたぼくが悪いんだから。春の陽気は、かくしてぼくの家にもつつましい平和をもたらしてくれたのであった。倉敷の滞在日数、5日間経過