ブライトンのビーチには砂がない。どこに行っても、どこを掘ってもゴロゴロと小石ばかりで、イギリス人は「ストーン・ビーチ」と呼んでいた。鎌倉よりもずっと長い距離でそんなだから、たぶん何億という小石がここにあると思う。いや、本当はもっとすごい数の石があるかもしれない。それぐらい、もうイヤになるぐらい石ばっかりなのである。
このブライトンのビーチでは2日間で4、5時間は過ごした。その間ほとんど、そこにいくらでもある小石を拾っていた。凶器にしようとか、観葉植物の植え替えのときに鉢の底に敷くとか、そんなんじゃない。たまに乙女のようなことをやってみたくなるのである。
何億という数の小石は、どれひとつとってもまったく同じものはなかった。大きさや色や、艶や模様、欠け具合や肌触りなど、似ているようでもそれぞれが異なる顔をもっている。まるで人間みたいだ。そのときの気分で気に入った小石を手にとってしばらく眺め、あるものは捨て、あるものはそのままポケットに入れた。2日間で5つの小石を拾った。1億の石があったとして、そのひとつを選択する確率は1億分の1。その5つすべてをそろえる可能性となると、これはもう天文学的な数字になるだろう。でも、その天文学的な数字の確率で、実際ぼくはその石を持ち帰った。
ブライトンのビーチで小石を拾いながら、こんなことを考えた。人と出会うのも、ここで石を拾うのと同じように天文学的な確率だろう。天文学的な確率で、ぼくは東京で番長やプシェメクと出会い、ロンドンでトモくんやシュウタと出会い、倉敷で小田クンや香川さんと出会った。この1年だけみても2、300の新しい人と出会った。この出会いを偶然といっていいんだろうか。ぼくはそこに理屈では説明できない、目に見えない何かがあるんじゃないかと思う。それが神様だとか、UFOに乗ってやってくる宇宙人の仕業だとは思わないけど、なんだろう、やっぱりなんかあるんじゃないかと思わずにいられないのである。
そこからちょっと飛躍するけど、やっぱり人は生かされていて、どんな人にもその人が生きている意味があると思ったりする。ノーベル賞をとるとか、人類の危機を救うとか、それはそれで役割なんだけど、ある個人をハッピーにしたり、普通に家庭を築いたりするのも立派な役割だ。
当然、「で、じゃあぼくの役割って?」と小石のビーチに座って考えた。KJで倉敷の知名度を上げること? あるいは親の面倒を見ること? プシェメクが日本に来てアーティストとして成功するのをサポートすること? 思い浮かぶマターはいっぱいあった。いっぱいありすぎて、最初の方に浮かんだのを忘れるぐらいだ。でも、これというのがない。もしかしたら、ぼくの役割は20年後に控えていて、核爆発から人類を救うことにあるのかもしれない。その可能性だって否定できないわけだから。
かようにして、石収集からスターとしたあれやこれやの思いの最後は「人間の生きる意味」みたいな、哲学の究極を考えるにいたったわけだ。もちろん、結論なんか出やしない。唯一結論に近いものがあるとすれば、そんなこといくら考えても結論は出ないという結論だ。でも、どっちにしても、生きていることに意味があると思うことは悪いことじゃないと思うね。